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3本足のカラスと太陽の祭と言えば世界遺産となった熊野でしょう。
日本神話では、神武東征の際にヤタガラスが熊野から大和への道案内をしたとされます。『古事記』と『日本書紀』には少し記述に違いがあります。 『古事記』ではヤタガラスを「八咫烏」と書きますが『日本書紀』では「頭八咫烏」と書き「頭」の文字が添えてあります。 咫とは昔の長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18cm)のことですから、その8倍は約1m半となります。翼を広げて1m半なのか、頭だけで1m半もあるのかとの議論は無駄で、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味だとされています。雰囲気としては「異常に大きいカラス」ということです。 道に迷った神武にヤタガラスを道案内役として派遣した神は『古事記』では高木大神、『日本書紀』では天照大神です。高木大神とは世界が生まれた時の最初の三神の一人であるタカミムスビの別名です。 また『古事記』ではヤタガラスは道案内をする大きなカラスですが、『日本書紀』では道案内だけではなく、敵方と交渉し、説得する役割も果たしていますから人語を話すカラスです。 神武2年の論功行賞に際しては、ヤタガラスも表彰され、『日本書紀』に「その子孫は葛野主殿県主部」とあります。葛野とは京都・桂川の流域地帯、その一帯の豪族がヤタガラスの子孫だと明記しています。 『古事記』も『日本書紀』もヤタガラスが三本足だったとは書いてありません。道案内をしたヤタガラスは中国の太陽カラスとはあたかも無関係のように記述しています。 『古事記』や『日本書紀』の著者は国粋主義的観点からヤタガラスが古代中国神話由来の三本足烏であることを隠したかったのでしょうか。 この神武神話は、三本足カラスを祖先神として信仰する熊野住民の首領が神武を道案内をしたと考えるのが適切でしょう。 『日本書紀』ではヤタガラスが言葉をしゃべるのですから、合理的に考えれば、カラスの衣装をまとって道案内したのだろうと推測できます。 その推測を裏付ける資料が二つあります。 一つは平安時代初期にまとめられた当時の紳士録である『新撰姓氏録』の第十六巻、鴨縣主の祖先に関して大略つぎのような記述があります。 「鴨建津之身命(かもたけつのみのみこと)は大きなカラスのように化け、飛び回って神武を導いた。天皇はその功績を特に褒め称え、天八咫烏の称号はこれより始まった」 つまり鴨氏の祖先カモタケツノミがカラスのようになって案内した功績によってヤタガラスの称号をもらったのです。想像するに「まるで本当のカラスのようだったなぁ。しかしカラスにしてはずいぶん大きなカラスだ」ということで「大きなカラス」という意味のヤタガラスの称号を与えられたと推測しています。 ![]() 写真は下記から引用 (http://www.mikumano.net/photo/36.html) 熊野の鴨氏は山城の国・京都に進出し、今日、葵祭で有名な上下の加茂神社を建立します。 その上加茂神社では毎年、神官が烏の衣装をまとい、「烏相撲」を執行する祭礼が行われています。 その昔、加茂氏の祖先・カモタケツノミが「烏に化けた」ことにちなんでいるのでしょう。 紀伊半島の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)はいずれも三本足の烏を神のお使いとし、それぞれデザインは多少異なるけれど神紋、あるいはシンボルキャラクターとして「三足烏」を使用しています。 いずれもこれをヤタガラスとしていますが、その起源が中国南部の神話にあったことは否めません。 年間降水量が多く、原始の森が続く熊野地方は中国神話での太陽の休む場所、湯谷であると考えられたようです。湯谷は日本語読みすると「ゆや」と読めます。能の演目に「熊野」と書いて「ゆや」と読むのがあるそうです。 熊野は太陽信仰の聖地。その典型的な祭礼が熊野那智大社の「扇会式」、通称は火祭り、熊野速玉神社の火祭りも勇壮です。火祭りは日祭りと同義です。熊野は太陽と関係が深い。 中国ではこの三本足烏を「金烏(きんう)」(金鳥ではない)といいヤタガラスとは言いません。月のウサギは「玉兎(ぎょくと)」といいます。玉とは緑色の宝石・翡翠のことで、不老長寿、長寿長命の神通力があるそうです。 ![]() 国粋主義者はその説明が不十分である、なぜ神武天皇のことを語らないのかとして不満のようです。しかし、「三本足」の烏は『古事記』にも『日本書紀』にも登場していないのですから、これは大変賢明な説明と言えましょう。 日本には中国古代神話の太陽(カラス)の子孫を自負する熊野の人々と、そのカラスを射落とした英雄ゲイの再現(オビシャ神事)を演じる人々が共存しているのは興味深いことです。 補足1 熊野速玉神社の西南、神倉山山頂にある神倉神社の御神体はゴトビキ岩と言う大岩です。ゴトビキとは大きなカエル、ガマガエルのことで、古代、航海の目印となり、火を燃やして灯台の役目もしたと言われるそうです。 ガマガエルといえば「月」です。太陽を祭る熊野では、ひっそりと「太陰」も祭られています。 補足2 日本でも放映された韓国ドラマ『太王四神記』にも三本足烏の紋章が登場していました。 これは約1500年前の高句麗の古墳壁画に由来するもので、韓国ではいわば高句麗(現北朝鮮にほぼ近い古代国家)の象徴としてよく知られたマークです。 日本サッカー協会のシンボルマークが発表された時には「日本にシンボルを盗まれた」という憤激が渦巻いたと聞いています。 しかし、先に述べたように「太陽と三本足烏」伝説は東アジア地区からアメリカインディアンにまで広がる神話伝説ですから、単純に「わが国が起源のデザイン」と思うのは誤りです。 高句麗のカラスには頭に冠というか、トサカというか、装飾があります。熊野にはありません。 ![]() 画像は朝鮮日報からの引用 http://www.chosunonline.com/article/20020226000035 #
by hangeshow
| 2008-08-15 12:32
| 太陽の話
2200年前の馬王堆遺跡から発見された衣装の右袖に黒いカラスが配された朱色の太陽が描かれていました。
これは起源が大変古い日月神話をもとに描かれていました。 しかし、この神話伝説は遠い過去の物語ではありません。今日の日本各地に「オビシャ神事」として、毎年春の行事として行われています。 カラスの描かれた的に向かって矢を射る行事で、英雄・ゲイが悪魔的な太陽を射落とした様子を毎年、復元・再生してます。 長い年月がたっていますから、さまざまに変形しているのもやむを得ません。 オビシャは御日射なのですが、御歩射(オブシャ)という場合があります。 馬に乗って的を射るのではなく、歩いて(立ったまま)射るので、御歩射になってしまったのでしょう。 御奉射(オブシャ)というのは、「矢を射させていただきます」という意味です。 オビシャがオブシャとなまって伝えられ、それに対応した文字(御歩射や御奉射)が後に付けられたものです。 カラスの的も変形し、単なる蛇の目模様の的になっている場合が多いのですが、一番真ん中の丸印だけが赤く彩られている場合は、かすかに「太陽を射るのだ」という意識が残っているのでしょう。 的が赤鬼や青鬼の場合もあります。単に「鬼」と書いてある的もあります。 千葉県八千代市と周辺のオビシャの的はどれも個性的で大変おもしろい。 オビシャの目的も多くは「五穀豊穣・豊年満作祈願」となっており、英雄・ゲイの偉業を再現したドラマなのだという解説もないし、意識もないようです。 わたしの勤務先の近くに六郷神社(東京大田区)があります。ここでは「七草こども流鏑馬」が行われます。 ![]() 数年前まで「御歩射」でしたが、武家と関係深いことから「こども流鏑馬」に劇的に変化したものです。 しかし祭礼の前半は「御歩射」の伝統にしたがって歩いて行われます。持っている矢を的に突きさします。後半が新しく採用された様式で、正装された木馬に騎馬して射ます。 行事の目的は「男子の健やかな成長と健康祈願」であり、都会の神社なので「五穀豊穣・豊年満作」も消えてしまいました。もちろんゲイ神話の説明などありません。 しかし、まぎれもなくこの行事はオビシャ祭です。 数年前まで「歩射」だったのであり、「八方にらみの的」が証拠です。(図は六郷神社のHPからの引用) ふざけた調子の眼が描かれています。 これは「魔」を示しており、魔を射ることで「豊作祈願」が成就するだろうといことになります。 この眼はおそらくカラス模様が変化したものでしょう。 元々は八羽のカラスが描かれていたものが、いつの頃からか「ヘンテコ眼模様」になってしまいました。 この行事は12歳以下の氏子の中から希望者が参加するのですが、大変な人気で毎年、100人以上の申し込みがあるそうです。ということは毎年100人をこえる英雄・ゲイが誕生していることになります。たいしたものだ。 2200年前の中国南部、馬王堆遺跡の女主人に贈られた衣装、そこに描かれた朱色太陽の中のカラス。乱れ出る朱色太陽を英雄・ゲイが射落として平和になったという神話。 その神話を毎年再現している人々の祖先は、古代中国南部(揚子江下流・呉国)と深い関係があるのかもしれません。 そんなことを考えるのが古代史のロマンでしょうか。 蛇足: 神話学ではオビシャではなく、射日神話といいます。逆に、太陽がいなくなって(隠れて)困り、太陽を呼び戻したというタイプの神話は招日神話と言うそうです。 ゲイ神話の中で「最後の一羽となったカラスは恐ろしくなって岩穴に隠れた」という別伝もあります。 これは「(乱暴な男がいたので)アマテラスが岩戸隠れした」という神話と同系列です。 太陽が復活するのには、どちらもニワトリが大きな役割をするのですが、今回は指摘だけにとどめます。 #
by hangeshow
| 2008-08-09 09:22
| 太陽の話
「複数の太陽が昇り、これを射落とした」という神話は岡正雄氏の『太陽を射る話』に詳しく載っています。太陽の数は、2・3・7・9・10とまちまちですが、インドネシア・タイ・中国・トルコ・モンゴル・日本・西部インディアンにも分布しているそうです。
旧石器時代(氷河時代)から新石器時代に変わる頃、地球は急速に温暖化してきて今日の気温になったことが学者の研究で明らかになっています。 生活環境がガラッと変わり、暑くなって死にそうだと思った人々によって生まれた、起源の古い神話だろうと言われています。 江戸時代の『広益俗説弁』に載っているという話を紹介しましょう。 “垂仁天皇の御代のこと、九つの太陽が空にかがやくという不思議がおこった。天文博士の占いによると北の端の太陽が本物で、南にならんでいる太陽はカラスの化けたものであり、地上から八町(約九百メートル)の高さにある。射落とさないと天下の大事件になるだろうということだった。 弓の名手八人に勅命が下り武蔵国入間郡に高い足場が組まれ、射落とす準備が整うと,天皇はこれを見るため武蔵に行幸された。八人の射手が神に祈念して矢をはなつと、八本の矢はみごとに太陽にあたって、筑紫国日向国宮崎郡に落下した。 難波の都に帰還した天皇のもとに落下した八つの太陽が献上された。身長一丈五尺(約4.5m)、尾の幅は一丈六尺(約4.8m)、くちばしは三尺八寸(約1.1m)もある大きなカラスであった。 その首を切ってみると、玉が一個ずつはいっており、そのなかにそれぞれ一寸六分(約5cm)の釈迦像が一体おさまっていた。その八つの玉を各地の神社にまつり、八人の射手たちには坂東八か国、天文博士にも領地が与えられた。“ さて本場の中国でも記録された書籍によってかなり差がありますが、まとめると次のようになります。 “尭(ぎょう)帝の時代、十個の太陽がいっせいに空に昇り、大地は焼け焦げていきます。天帝は、仙界に住む「げい」という弓の名人に地上に降りて、地上を正常に戻すように命じます。 げいは弓を構えて、太陽に引っ込めと命じますが、一向に引っ込む様子がない。それで次々に矢を放ち、九個の太陽を射ると、九羽のカラスが落ちてきました。空に残った一個の太陽は、殺さないでと哀願したのでげいは許し、世界は救われます。 ところがこの殺されたカラスは天帝の子どもだったから、「脅かして引きかえらせば良いものを殺してしまうとは‥」と激怒し、げいは仙界に復帰できなくなります。 復帰する手立てをいろいろ調べてみると、世界の西の果て、崑崙山(こんろんさん)に住む西王母(せいおうぼ)が持つ薬を一つ飲めば不老不死となり、二つ飲めば仙界に復帰できることがわかりました。 苦労の末に西王母に面会を果たしたげいは、二粒の薬をもらいましたが、ふと妻をどうするかと悩み、さしあたってこの薬を飲まずに隠しておきました。 げいの妻も仙界の女ですから大変な美人です。二人で仙界に戻るには四粒必要です。仲良く一粒ずつ飲んで人間界で不老不死で生きるのも気がすすまないし、妻を地上にひとり残して自分だけ仙界に戻ることも薄情だし‥と悩んでいたのです。 ところが、妻(嫦娥(じょうが・こうが))は悩まない。薬を発見すると、これを盗んで仙界に戻ります。仙界に一足飛びでもどるのも芸がないと思ったのか、月に寄ってから行こうとします。 月は西王母が支配する星で、不老不死の薬を配下のウサギが作っています。桂の木があり、何度切り倒しても復活するそうです。(月桂樹) 嫦娥の自分勝手さに怒った西王母は彼女の姿を醜いガマガエルの姿にし、永遠に月に留め置くことにしました。だから月にはガマとウサギがいるのです。“ 一説によると嫦娥は美しいまま、月の世界で孤独という罰に耐えながら暮らしているそうです。 一説によると泥棒に盗まれそうになった薬を渡すまいとして、何の薬かも知らずに嫦娥が飲んでしまったといいます。 また一説によると、げいは元々人間で、英雄として人々から尊敬され、王侯貴族のように楽しく豊かな生活をおくっているうちに不遜にも不老不死を願うようになった。妻・嫦娥は夫の野望を阻止するために自らその薬を飲んで死んだ――天界に昇ったとされています。 ガマの話よりロマンチックな薄幸の美女の話の方が人気があるらしい。十五夜に中国では家族で月餅を食べる習慣があり、月を見ると嫦娥を思い出すのだといいます。 民俗学的に言えば、満月(月餅)を食べることによって、自身の満月化(不老長寿・長寿長命・無病息災)を祈願する呪術的な行事といえるでしょう。 蛇足になりますが、月餅を他人に贈ることは、その人の永遠の栄華・栄達を願うことになります。月塀を贈ることはワイロの意味合いにもなるようです。饅頭の下の小判のような感じでしょうか。 2005年、中国政府は超豪華な月餅の贈答を禁止しました。 2007年に中国が打ち上げた月探査周回衛星は「嫦娥」と名づけられました。この場合もガマガエルではないでしょうなぁ。月にすむ美しい仙女・嫦娥にちなんだものでしょう。 月にウサギの話はインドの仏教説話にもあります。 行き倒れの老人を助けるために、サルは木の実や果物を集め、キツネは川から魚を捕ってきた。ところがウサギは何も採ってくるものがなかった。ウサギはサルとキツネに火を焚くように頼み、「せめてわが肉を食べてほしい」と言って燃え盛る炎の中に身を投じたという。 老人は帝釈天であった。ウサギの慈悲行に感じ入った帝釈天により、ウサギは月に送られて復活したという。 月の満ち欠けを、昔の人は「死んでも復活する」と思い、不老不死の象徴としてきたことは良くわかります。 ガマが不老不死に関係あるのも理解できます。ガマはイボイボだらけでずいぶん年寄りの雰囲気があります。しかも冬眠し、春には土の中から這い出してきます。 しかしなぜ、ウサギが不老不死、あるいは月と深い関係があるのかはよくわからない。 どなたか教えてくださいませんか。 さて前回述べた馬王堆遺跡の女主人とからめて述べれば、夫は妻が天界・仙人界で不老不死の生活をおくってもらいたいと思い、さまざまな生活道具とともにあの衣装を妻に贈ったわけです。 そして2000年経ってもかのご婦人は生きているがごとしであった。おそるべき中国古代の科学技術。 あと一歩で本当の「不老不死」の薬が手に入る、と当時の人々は信じていたことでしょう。 #
by hangeshow
| 2008-08-07 18:43
| 太陽の話
1971年、中国 湖南省 長沙市の東、約4km付近ある馬王堆(まおうたい)遺跡の発掘調査は世界に大きな衝撃を与えました。
発掘された遺体は身長154cm、体重34kg、年齢50歳ほどの女性で、発見当時、身体にはまだ弾力があり、つやもある。指で押すと、くぼんだ後、また元に戻ったといわれています。 後の調査によって、この女性は長沙国で宰相をつとめていた利蒼(りそう)の妻で紀元前186年に死亡したことが判明しました。およそ2200年前の遺体です どのうにしたら遺体を生前同様に保存できるのか、現代科学でも謎だそうです。 多種多様な遺品も同時に発掘されましたが、その中でも1枚の衣装が注目を集めました。残念ながら良い画像が入手できなかったので、中国の切手 を紹介します。白黒模写図 ![]() 太陽の下に小さな赤丸がいくつかあります。赤茄子のような感じですが、わたしはこれは太陽のタマゴだと見ます。 メンドリを捌いた内臓を見てみると、明日、明後日などに産み出すタマゴがもういくつも準備されています。そんな感じでしょうか。 太陽(カラス)は生き物で、毎日、東に生まれて西に飛んで死ぬ。天界では翌日のタマゴが準備されている図だと思います。 太陽は赤い、その本体はカラスであるという思想でしょうか。東に生まれた太陽は徐々に強力になり、白く光り輝く。だれもその姿を見ることはできない。しかし夕方になるとその力は衰え、赤い本体を人目にさらしながら地平に落ちて死ぬ--そう考えていたと思います。 というのは、「ある日、太陽がいくつも同時に昇り、それはもう、ものすごい暑さで動物も植物もバタバタ倒れた。そこに勇者が現れ、太陽を射落として正常な世界が戻った。落とされた太陽はカラスであった」という趣旨の物語があるからです。 1日1個のタマゴが生まれるのが普通だが、何かの拍子に複数のタマゴが生まれることがある、そのような実体験を踏まえた物語だと推測しています。 赤い太陽の中に黒いカラスがいる--の起源は中国南部の古代伝説・神仙思想にあることをこの婦人の衣装(正しくは「T字型帛画」)が示しています。 注目すべきもう一つの点は、カラスの足が2本だということです。後に陰陽五行説に影響されて3本足になるのですが、この時点ではまだ2本足だったということも興味深いことです。 この衣装の上部に大きく描かれた日月が、天体としての日月ではないことは明らかです。つまり、日月ではなく、神秘的・霊的な存在としての太陽・太陰が描かれています。 「日の丸」が赤丸太陽だとするならば、「日の丸」デザインの起源はここにあるといえましょう。 どちらも赤丸太陽には光芒(日の光)が描かれていません。 どちらも「赤」というよりもまさしく、朱色に近い赤(紅)の太陽です。 太陽を光芒なしの紅色の丸で描くのは古今東西、きわめてめずらしい。偶然の一致とはいえますまい。 そもそも「お日様」を「太陽」ということ自体が、古代中国の陰陽五行説の用語を使っていることは前回述べました。 「日の丸」デザインの起源は古代中国南部で生まれたことは確定的でしょう。 #
by hangeshow
| 2008-08-06 16:02
| 太陽の話
古代中国で「陰陽五行説」という膨大な理論が成立した。簡単に言うと、“すべての存在は木・火・土・金・水の5要素(これを五行という)で成り立ち、すべての存在は陰と陽の側面を持つ”という考え方である。
陰陽五行説は中国文化圏(日中韓ベトナムなど)に大きな影響を今日にも及ぼしている。漢方医学や薬膳料理などもこの理論に従っている。 「陽の季節である夏には陰の食べ物である野菜を食べる。陰の季節である冬には陽の食物である根菜類を食べるとバランスが良い」などという。 木・火・土・金・水の五行は色彩・季節や方位にも振り分けられる。木(青・春・東)、火(朱・夏・南)、土(黄・中央)、金(白、秋、西)、水(黒・冬・北) 日本の国技である大相撲では、東西南北に青房、白房、赤房、黒房が飾られ、中央は土俵で黄色である。 土俵の上で白黒をつける。白が陽で黒が陰である。 若い時代を青春というのもこの理論による。すると老齢期は白秋時代ということになろう。皇太子を東宮というのも、まだ一人前でないことを「青い」というのもこの理論による。 陰陽五行説によれば、すべての陽気の根源を「太陽」といい、すべての陰気の根源を「太陰」という。太陽は赤(朱)で、太陰は青で示す。これを天体に当てはめれば、日月となる。 日月と五行の星(木星・火星・土星・金星・水星)で一週間が成り立っている。 日月を太陽太陰と呼ぶのは陰陽五行説の用語なのだ。 不思議なことに日本では、「太陽と太陰」という言い方はあまりしない。「太陽と月」という言い方が一般的であろう。「日と月」だと何か落ち着かないからであろうか。 陰陽五行説では「太陽は赤い」という。これは日本語の「明るいものを赤いという」感覚と矛盾しない。日本語の「赤い」には黄色や橙色など多くの色彩が含まれていたが、中国の陰陽五行説が導入されると、「赤」に純化されていった。太陽は決して黄色ではないのが陰陽五行説である。 日月、天地、男女、君臣、夫婦、東西、南北、山川、乾湿、表裏、上下、左右など陽と陰とに分類され、それぞれ異なり対立しながらも互いに補いあう。 太陽と太陰が見事に調和融合した根源的な状態を「太極」といい、韓国のシンボルマークとなっている。 韓国国旗・太極旗 「日の丸」の赤丸がもしも「太陽」を意味しているならば、ものごとの二面性を理解せず(陰の部分を無視し)、「陽」だけをシンボルにした「行け行けドンドン」の旗であるといえなくもない。 #
by hangeshow
| 2008-08-06 11:29
| 太陽の話
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