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文武天皇の父は草壁皇子、祖母は持統。
天武が死去した後、妻・持統は自ら皇位に昇り、息子・草壁の忘れ形見・孫の文武に皇位を引き継ぎます。 それはなんとしてでも天武が他の女に産ませた皇子には皇位を渡さないという強い意志の表れでありましょう。 それにしても他に有力な天武の息子がいたのですから持統の即位は無理を通した異例のケースです。 それは太古の時代に前例がある、アマテラスは孫のニニギに皇位を引き継いだではないかという神話を持ち出して不平・不満を抑圧したのでしょう。この神話は原神話を改ざんしたものだろうと言われています。その主体は持統の片腕であった藤原不比等ではないかとも言われています。 「持統」という名称は「皇統を正しく保持した」という意味になり、またの名を「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)といい、アマテラスを意識した名前になっています。 697年、持統を後見人として孫・文武がめでたく即位したところから『続日本紀』が始まります。 『続日本紀』大宝元年(701年)の元旦の儀式として「天皇は大極殿で朝賀の挨拶を受けた。その儀式は正門にカラスの形をした幢(どう)を立て、その左側に日像(じつぞう)、青龍、朱雀の幡(ばん)を立てた。右側には月像(げつぞう)、玄武、白虎の幡を立てた。野蛮人の使者たちが左右に並んで拝謁した」とあります。 大陸の超大国で文明国の唐のスタイルを模倣して「近代的」な儀式を執行したから記憶に残り、記録に残ったものでしょう。 原文は漢文で「天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右」 幡(ばん)を漢字辞典で調べると「はた」とありますから、日像の旗、つまり「日の丸」の起源がここにあると主張する人がたくさんいます。 ところがこの「日像の幡」とは実際にはハタではありません。おそらく「幡(ばん・はた)」という文字に引きづられた勘違いであり、図で確かめることを怠った結果でしょう。 神宮文庫の『文安御即位調度之図』(一二六四・文安元年記録)の写本、あるいは『桜町天皇即位図屏風』で「日像の幡」を確認することができます。 3階に達するほどの長さ約9mの黒漆塗りの長大な棒の先端に直径約1mの金銅製(銅に金メッキ)の円盤が飾られ、その周囲に二一本の細い棒がつけられ光線を表しています。金色の円盤の中に描かれた赤いカラスは三本足です。そして円盤から下には九つの金色の円環が飾られています。 ![]() 画像元:http://katori.cc/karasu/karasu-1.htm 右側が光線を持つ金色の太陽に黒い三本足カラス、左が烏形幢と呼ばれる赤い幢(どう)の上に金色のカラス。 右側の日像幡が白地に赤い「日の丸」の原型だと言う人のデザイン感覚は相当なものです。「日の丸」の原形を文武天皇に求めるのは無理な話です。 なお、08年7月、藤原京の発掘調査で、7本の柱跡が見つかりました。「樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡」の跡であろうと学者は想定しています。 文武朝賀の6年後、文武は早世し、文武の幼子・聖武が皇位を継承するまで、今度は聖武の祖母(元明)、伯母(元正)が皇位に昇ります。祖母の元明女帝は710年、都を藤原から奈良へ移します。聖武のための新しい都という意味でしょう。 補足1: この日像幡その他が中国由来であることはあまりに明らかで、ここに「日の丸」の起源を求めてしまうと、「日の丸」の起源は中国にあると主張することになってしまいます。 国旗国歌法制化に際して自民党推薦の参考人として賛成論を述べた所功氏(京都産業大学教授)は著書『国旗・国歌の常識』の中で、文武天皇の日像幡と「日の丸」の関係を否定しています。さすがというべきでしょう。 補足2: 天皇即位式には二羽のカラスが参列します。そのうち、謎のカラスが烏形幢(うぎょうのどう)とも銅烏幢(どううのどう)とも呼ばれるカラスです。 左側に日像・青龍・朱雀、右側に月像・玄武・白虎を従えて、まるで彼らの長であるかのように中央先頭にいるのがこのカラスです。 日像の中にはすでにカラスが描かれていますので、中国古代伝承の「太陽にはカラス」とは違います。中国古代皇帝の即位式にこのカラスは存在しないようですから、天皇家独特の風習かと思われます。 ではいったい何の象徴かというと、「わからない」が実情のようです。 薬師寺真一氏の「即位式トカラス」が参考になるかもしれません。 補足3: 天皇即位式の奇怪な日像幡は「あまりに中国的」であるとして明治天皇即位式(1868年)で廃止され、約1160年間続いた伝統の装飾は終わりました。ぜひ一度何かの機会に、復活再現し、それを見てみたいものです。 天皇家の文化伝統とはどのようなものなのか、よく分かると思います。 #
by hangeshow
| 2008-08-27 17:00
| 古代
![]() 損傷していなかったらどうやって区別するのか、全体像があるならば腰のひねり方で判ります。中央の薬師如来の方向に左右の菩薩が腰をひねっています。如来の左(むかって右)に立つ像が日光菩薩で、右手をあげているのもその特徴です。 (インターネットのサイトでは左右を取り違えて、日光・月光を紹介している例が多い。困ったことです) ![]() ![]() 東大寺の場合は衣服の違いで区別することになります。日光菩薩の衣装は通常の衣でどちらかというと男性的(右の画像)で胸の前がはだけています。月光菩薩の衣装の上半身はシャツのようで女性的。 薬師寺の日光も月光よりやや男性的な体格になっているといいます。 画像元:http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002toku/todaiji/todaiji-1.htm いずれにせよ判別しがたいのは、仏像が時代を経て彩色を失ってしまったから。薬師寺の菩薩の場合、昔は全身金色に輝き、頭髪は群青色だったと推測されています。 宝冠が何色だったかわかっていませんが、日光の場合は金、月光は銀だったのではないでしょうか。 あるいはもっとドハデな彩色だったとすると日光は赤、月光は白の宝冠だったことも考えられますが、どちらだったのか判然としていません。 つまり本来は宝冠の色で日光(金・赤)か、月光(銀・白)かを容易に区別できたのです。また仏教はインド由来なので三本足カラスは日光菩薩に描かれていません。 日月が同じ丸形紋様で示されるから、色で区別するしか方法がない。色が失われると判らない、それでは困るので後世に作られた日光・月光菩薩は日光にはカラス、月光にはウサギやガマを描いて一目瞭然とするようになりました。それは日本的な妥協。本来はカラスやウサギは描きません。 天武・持統朝に建立された薬師寺の日光菩薩が何色の宝冠を被っていたのでしょうか。判然としないのは残念なことです。 #
by hangeshow
| 2008-08-27 16:30
| 古代
宮内庁が発掘を妨害しない中小の古墳から皇族・王族の墓だと推測される立派な遺跡が発掘発見されたりするのは皮肉です。高松塚古墳やキトラ古墳がその良い例です。
キトラ古墳の天上には北極星を中心にした天体図が描かれています。(模式図) ![]() 画像元:http://tt.sakura.ne.jp/~hiropon/sky/cafe35.html その図は中国古代の天体図が元になっているので、今日わたしたちが普通に見る天体図(星座盤)とは大いに異なっています。 しかし学者とはえらいもので、キトラ古墳に描かれた星座や黄道(太陽の通り道)などからどの星が描かれているかを割り出し、この天体図がおよそ北緯38度で見ることができる夜空であることを明らかにしています。具体的に言うと北朝鮮のピョンヤン、当時の高句麗の夜空であるそうです。 古墳の東西南北には四神という古代中国の霊獣が描かれています。玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)という四神がきれいにそろって発見されたのは初めてという。(多くの古墳ではいくつか剥落していて全部は確認できていなかった。) 特に注目を浴びたのは子丑寅‥の十二支が人身獣面で十二方位に描かれていたことです。子は北、午は南をさす。地球の南北に輪切りにした経線を子午線といいます。 さて星は直径1cm程度の金箔で示され、星座はその星を朱線で結んでいる。相当剥落しているが日像・月像は直径5cm程度の円でひときわ大きい。日が金箔、月が銀箔で示されています。 金丸太陽を仔細に調べてみると、三本足カラスの像が描かれていることが判りました。すると月は損傷が激しく確認はとれていませんが、おそらくガマやウサギが描かれていたに違いありません。 繰り返しますが、太陽太陰という単語は陰陽五行説に基づき、陽気陰気の根源という抽象的な概念を示しています。それを天体の日月に当てはめると、太陽は赤、太陰は青となるのです。 キトラ古墳の天体図の場合、日月を観念的な赤青で示さず、よりリアルな金銀で示したものでありましょう。金銀の方がより豪華で装飾的です。 ところでこの墓の主はだれか?歴史学者は「文献に記録がないからわからない」といい、考古学者は「墓碑が発見されていないからわからない」と言っています。慎重なのは良いのですが大胆な推理ができないものでしょうか。 世界を支配する天帝の座は北極星です。天帝の代理、もしくは子と言われるのが天子様です。北極星の真下に眠る人物は天子(天皇)または天子に匹敵する人物であると思われます。 この古墳の位置は天武天皇が計画し、妻の持統天皇によって完成した藤原京の南北を貫く中央大路の延長線上にあります。 この延長線上には天武・持統合葬陵があり、天武の孫である文武天皇の陵もあります。いわば聖なるラインで、このライン上にある陵墓は天武一族であると考えられています。話題となった高松塚古墳もキトラ古墳もこのライン上にあります。 そして高松塚古墳でも北極星を中央にした星座図が発見されており、キトラと同じように太陽は金箔、月は銀箔で描かれていました。 文武の子である聖武がその礼服の肩に日月の紋様を金銀で描いたのは、古墳の天体図と関係があるのかもしれません。礼服の背中には天帝の座である北斗星が描かれていました。 #
by hangeshow
| 2008-08-27 10:56
| 古代
唐・新羅との無謀な戦争に踏み切った天智王朝は白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)で大敗北を喫したがなお徹底抗戦の姿勢を示していました。その天智王朝を武力で打倒(壬申の乱672年)して成立したのが天武による新王朝です。
天武王朝は倭国を日本と改めて唐と講和し、先進的な大陸の帝国・唐の文化文物が大量に日本に流入するようになります。それは鬼畜米英に敗れた日本が急速にアメリカ化したことによく似ています。朝廷は唐の律令制を取り入れ、天子を頂点とする中央集権制の確立に取り組みます。朝廷の儀式儀礼も唐風に改められました。 ![]() 適当な画像がないので漫画で恐縮です。聖武天皇が被っている冠は唐の皇帝の冠をモデルにしています。 また着ている赤い服は、一見すると和風にも見えますが、これもまた中国皇帝の礼服をモデルにしたものです。 この絵ではよく見えませんが、この赤い礼服にはカラスのいる金色太陽とウサギのいる銀色の太陰(月)が描かれていました。 聖武天皇以後、代々の天皇は重要な儀式の折にはこの赤い衣装に身を包み、その伝統は明治天皇の父君である孝明天皇の時まで続きました。 次の画像は孝明天皇の礼服(上着)です。 画像引用元http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_177588-1.html ![]() 地の色が赤ですから、赤丸太陽では映えない。それで金色太陽になっています。天皇の象徴として日月を描くとき、金銀の円で描くのはこの礼服の紋様が頭にあったからでしょう。 天皇が車で出かけるときにはフェンダーに天皇旗がはためきます。明治になってできた旗ですが、地の色が赤で16弁の金色の菊花紋章が描かれたものです。地の色が赤というのもこの礼服と関係あるに違いありません。 赤は古代中国の陰陽五行説では南を現し、その勢いがもっとも盛んであることを示します。南の神獣は朱雀(すざく)で、しばしば鳳凰の図柄で描かれます。鳳凰は天皇を象徴する霊鳥ですから、天皇の色が赤だというのもうなづけます。 ちなみに、皇太子を東宮といい、そのシンボルカラーは青となります。 しかし天皇のシンボルカラーが赤だという本当の理由は、おそらく中国皇帝と同じ色、すなわち黒を遠慮したからだろうと思います。島国の王の分際で皇帝と同じ衣装を着るとは出すぎた行いで、謀反の意志有りとして討伐の対象になりえます。 この画像は漢時代の皇帝の礼服です。 画像元:http://www.5000han.com/bbs/thread-783-1-6.html ![]() 中国皇帝の礼服では、地の色が黒ですから太陽は伝統的な赤丸です。 皇帝がこの服を着用するときには百官は赤服と言われますから、天皇が赤服というのは中国皇帝の部下であることを自ら示したのかもしれません。 中国皇帝と天皇の礼服ではいろいろ違いがあります。日月の左右の位置が反対です。また皇帝の場合、日月の下に北斗七星とこと座(織女星)が描かれていますが、天皇の衣装の背中には北斗七星が描かれ、こと座は省かれています。 北斗七星は決して地に沈みません。その中心の北極星こそ天帝の住処と思われていました。 北極星は北の星です。陰陽五行説ではその色は黒となり、天帝の子たる天子様も最高級儀式の時にはこの黒い衣装を着用したのでした。 また黒はすべての色を合わせた色ともいえます。すべてを統合した玄妙な色としての黒で、天子が地上の万物を統合することを示しています。 天皇の衣装は黒が使えないので、せめてということでしょうか、背中の中央に北斗七星を描いて、俺は天子だぞという主張をしています。 天子が北極星ならば日月はその部下となります。左右の大臣のごとく左右の肩に日月が描かれています。これは太陽の子孫をもって認じる天皇にとっては大変な矛盾なのですが、中国文化に目がくらみ、その矛盾には目をつぶったのでした。 #
by hangeshow
| 2008-08-22 17:01
| 古代
奈良・法隆寺の隣に中宮寺があります。そこには国宝・「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」が展示されています。もちろんレプリカですが。
これは聖徳太子が622年に愛妻・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)とまるで心中のようにして亡くなった後、太子の正妻を自負する推古天皇の娘である橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)が推古天皇の許可を得た上で、太子を追悼するために作製した刺繍のタペストリーです。それを「帳(チョウ・とばり)」といいました。 天寿国とは極楽のような死後の世界であり、そこで太子が幸せに暮らしていることが描かれています。 下絵を描いたのは大陸や朝鮮半島からの渡来人画工であり、刺繍をしたのは宮廷女官である采女(うねめ)であると伝えられています。 中宮寺の秘宝であったものが鎌倉時代に再発見されましたが、もう相当程度痛んでいたようです。再現できる部分は補修されましたが、今日見てみると、鎌倉時代の補修の方が一層痛んでいますから、飛鳥時代の刺繍の技術の高さがうかがわれます。 ![]() 画像元:http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=2562 その後、日本では満月を望月ということから、語呂合わせでウサギが餅をつくという話になってしまいましたが、この繍帳では中国古代神話に忠実で、薬草を作るウサギが描かれています。 したがって、この時代は中国・韓国・日本の三国が共通の中国文化圏であったことがよくわかります。 では太陽はどう描かれていたかというと、残念ながら実物も鎌倉時代の補修も残されていません。 しかしながら月に薬草を作るウサギが刺繍されているのですから、カラスのいる赤丸太陽が刺繍されていたと推測できます。 その推測を裏付ける実物があります。太子の伯母である推古天皇の御物であったとされる法隆寺所蔵の国宝・「玉虫厨子」の背面に描かれた「須弥山図」です。 須弥山とは仏教世界で言う世界の中心にある山で、厨子の絵柄では三階建てのキノコのような須弥山の頂上に帝釈天の宮殿があり、その左右に日月が描かれています。 左側の光芒のない赤丸太陽の中にはカラスが描かれ、右側の月(太陰)は文様がはっきりしませんが、おそらくウサギが描かれていたのでしょう。 2200年前の古代中国南部の馬王堆遺跡の太陽太陰文様は飛鳥時代の最高級の人々にしっかりと受け継がれていたことを確認できます。 金色でも白でもなく、光芒(日の光)も描かない単なる赤丸太陽のわが国における最初の図柄がこの玉虫厨子に示されています。 「日の丸」賛美派の人々は「日出国の天子」と随への国書に書いた聖徳太子を美化しながら、太子を追悼する天寿国繍帳に描かれていただろう赤丸太陽や、太子の伯母が所持していた玉虫厨子に描かれている赤丸太陽には決して触れません。黙殺です。 光芒のない赤丸太陽の起源が中国にあるという歴史的事実を認めたくないからでしょう。それは公正な態度ではなく、卑怯な態度だといえましょう。 #
by hangeshow
| 2008-08-20 21:15
| 古代
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