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![]() ![]() 画像は「日の丸」と楯無(たてなし)鎧 画像元:http://www.asahi-net.or.jp/~wh6t-ootn/takeda/kaho.html 甲斐の武田信玄の血統は源氏です。武田家には昔から伝わる家宝が二つありました。ひとつは先祖の源頼義が後冷泉天皇(1045-1068年)から下賜された「日の丸の御旗」。もう一つは「楯無(たてなし)」と呼ばれ鎧(よろい)です。この鎧は、槍や刀を通さない頑丈な鎧だから、楯など必要ないという意味で「楯無」という伝承があります。 源頼義の三男・新羅三郎義光が相続し、その後甲州に移った武田家が代々相続してきました。武田家では、 どんなにもめても、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言って決断を下すと、全員がその結論を死守するのが義務だったそうです。 現在、この旗の残欠は山梨県塩山市の雲峰寺にあります。武田家の言い伝えが正しければ、平安時代のものですから、現存する最古の「日の丸」です。 ところがこの「後冷泉帝から下賜された」という言い伝えを立証する手がかりがありません。後冷泉帝がなぜ、いつ頼義に「日の丸」を下賜したか、文献がありません。だから最古の日の丸と思っているのは武田信玄フアンが中心です。 もし平安時代のものならば、おそらく1051年、安倍頼時追討の宣旨が頼義に出された時(前九年の役)であろうと想像しますが、なぜ「日の丸」なのかの理由も良くわかりません。 安倍氏追討の様子を描いた『前九年合戦絵詞』(鎌倉時代)にも「日の丸」が登場しません。 もう一つの宝物、楯無鎧は国宝指定に際して綿密な調査が行われ、鎌倉時代から江戸時代まで何度も修理・補修されているけれども平安時代のものであると確定していますから、「日の丸」も平安時代の可能性はあります。 ところが楯無鎧と「日の丸」には奇妙な由来伝説があります。 室町時代後期の『見聞諸家紋』という本にあります。この本は諸家の家紋の由来を述べているのですが、 「永承五年(1050年)後冷泉院の勅により奥州安倍頼時を攻む。此の時住吉社に詣で、夷賊の平伏を祈る。時に神託ありて旗一旒鎧一領を賜わる。昔神功皇后三韓を征する時用いしなり。神功皇后の鎧、脇楯は住吉の御子・香良(カラ)大明神の鎧袖なり。此の裾の紋割菱なり。三韓帰国後摂津国(今の大阪)住吉へ鎮座し宝殿に奉納す、今霊神の感応により源頼義に之を賜わる。希代と謂うべきなり。‥‥ 旗楯無是れなり。」と書かれてあります。 永承五年とは前九年の役が勃発した年であり、陸奥守・藤原登任(ふじわらなりとう)が現地の豪族・安倍氏に大敗北を喫した年です。翌年、源頼義が新・陸奥守、鎮守府将軍として赴任しますから、その時に大阪の住吉神社で戦勝祈願を行った。そうしたら神託があって、旗一旒と鎧一領を賜わった、と書かれています。 この本の趣旨は武田菱の家紋の由来はこの鎧の紋様からだというもので、たしかに楯無鎧に「割菱」模様があります。 この本を信じれば「日の丸」も楯無鎧も後冷泉帝が下賜したものではなく、住吉神社が源頼義に下賜したものであります。 ところがこの鎧は神話上の人物・神功皇后が三韓を征伐する時用いた鎧だというのですから、ハクを付けたつもりでしょうか、これはもう作り話であるのは明々白々です。 問題は、何のためにこのような作り話が必要だったかです。 作り話は、本当の話を隠すために行うのが常識です。 では隠さねばならない本当の由来は何なのでしょうか。 今ではもうわかりません。 この旗にはいくつかの疑問があります。 平安時代の旗は縦長の「ながれ旗」であり、正方形の旗などありません。 また旗に何らかの紋様を描くようになるのは鎌倉時代以後のことです。 ところが雲峰寺にある「日の丸」の往時の大きさは縦横約2m50cmの正方形で、しかも赤丸が異常に大きなものですから、「後冷泉天皇の頃の旗」と言われても強い違和感があります。 太陽を赤丸で示すのは鎌倉時代末期からですからその点でも時代があいません。 後冷泉天皇の頃の旗であるとするならば、それは蝦夷の旗の新作模造ではないでしょうか。以下私の想像です。 坂上田村麻呂が蝦夷の反乱を平定し、京都に凱旋したときにさまざまな戦利品があったはずです。その中に蝦夷の「日の丸」もあったとしたら、「日の丸」のいわれを田村麻呂は朝廷に説明したことでしょう。 前九年の役に際して、今度は東北の人々を威嚇する手段として巨大な「日の丸」を朝廷か住吉神社かが用意したものだと思います。 あるいは元々は蝦夷からの戦利品であった「日の丸」を下賜されたのかもしれません。 白地に赤丸太陽を戦場に掲げたのは蝦夷といわれた東北の人々でした。 たとえ下賜された貴重な旗だとはいえ、当時の朝廷関係者としては奇妙なデザインの旗は、その由来には触れず、人目にも触れないようにお家の宝としてしっかり仕舞い込まれたのでしょう。 補足:秋月氏の御旗 戦国時代に九州・筑前国秋月氏という武将がおりました。 その祖先は天慶三年(940年)藤原純友の乱(天慶の乱)に追捕使主典として太宰府に赴き、小野好古らと共に藤原純友を追討しました。その功によって朱雀天皇より、錦の御旗と短刀を下賜され、西征将軍になり、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職、太宰府の武官として北部九州の守備にあたったそうです。 これは『秋月家譜』という書物にあるそうですが、この話が正しければ勲功の褒美として天皇から 「旗と刀」 を下賜されました。そういう習慣が朝廷にあったと思われます。 この話は武田氏の家宝「御旗・楯無」の由来に似ています。武田氏は 「旗と鎧」 です。 武田家の「日の丸」も前九年の役(1051-62年)の勲功として、天慶の乱の前例にしたがって 「旗と鎧」 を下賜された。その旗は坂上田村麻呂の戦利品である蝦夷の旗を下賜された、その可能性を否定できません。 なお、秋月家は、その旗にあった大和撫子を自家の家紋としました。 #
by hangeshow
| 2008-09-11 16:18
| 古代
「日の丸」の起源としてもっとも確実な絵画は「清水寺縁起絵巻」(東京国立博物館蔵)だと思います。 画像元:http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=F08&processId=01&col_id=31382&Title=&Artist=%93%79%8D%B2%8C%F5%90%4D&Site=&Period=&FromNo=&ToNo= ![]() ![]() 大和朝廷の時代、朝廷の版図(領土)はおよそ関東地方まであり、東北地方は「蝦夷」とよばれる朝廷には従わない人々が暮らしていました。 朝廷はたびたび遠征軍を出し、着実に領土を増やしますが、蝦夷は機会を得ては反乱=独立戦争を起こします。 東北地方での朝廷と蝦夷の最後の大決戦は、桓武天皇の時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と蝦夷の首長・「阿弖流為」(アテルイ)との間で行われました。 朝廷軍は苦戦するのですが、田村麻呂が観音様に必死に祈願すると、観音様はそれに応えて雷神を救援に送ったために蝦夷軍は戦意を喪失して大敗した――という物語がこの「清水寺縁起絵巻」に語られています。観音様に感謝して田村麻呂は京都に清水寺を建立しました。 歴史的には802年のことですが、この絵巻が描かれたのは室町時代です。したがってどこまでリアルなものか、信憑性に疑いがあるものの、かなり詳しい伝承があったものと思われます。 たとえば蝦夷(東北の人々)は鬼か野獣のような顔で描かれているのはそのような伝承があったことを示しています。縄文人の血が濃い東北人の顔は、渡来系弥生人の血が濃い朝廷貴族が偏見を持って見てみれば「鬼か野獣」に見えます。アルテイの顔の復元図 また蝦夷軍の船はかなり高級な造りで、武具もまた大陸風に見えます。これもおそらく事実でしょう。軍船・武器の姿・形は想像であるにしても、蝦夷が単なる野蛮人ではなかったことを伝承しています。つまり、強力な相手だったと。 現代人は蝦夷をまるで野蛮人の集合のように考えがちですが、実際には北海道や新羅、高句麗(古代朝鮮にあった国)とも交易を行う「文明人」であり、朝廷にとっては目の上のタンコブでした。 したがって日本海を越える船舶を所持し、大陸風の先進武器を持っていたのは当然のことです。だからこそ田村麻呂以前の朝廷軍はたびたび手痛い敗戦の憂き目にあっています。 船舶の船端にずらりと並んだ「日の丸」も伝承に基づいたもので、画家の創作とは思われません。その意味は敵(朝廷軍)を威嚇するものであり、猛烈な太陽の熱と光で敵を滅ぼす呪術的な意味合いを持っていたのだと思います。 “連中は白地に赤丸印で襲い掛かってきた。しかし観音様の力が勝った”という伝承に基づいて画家が描いたものだと推測します。 中国古代神話では英雄ゲイが九つの太陽を射落としました。この九つの太陽を自己のシンボルとして朝廷軍に立ち向かったのに違いありません。九つどころか無数の「日の丸」を掲げて敵を呪い殺そうとしたのでしょう。 この「日の丸」――白地に赤丸は先に(13)装飾古墳と太陽で述べた「白壁に赤丸」紋様につながります。 この虎塚古墳のある茨城県ひたちなか市とは水戸市の近くであり、かつては蝦夷の領域でした。その地は「日高見国」と呼ばれていました。 蝦夷の「日の丸」は蝦夷地域=「日高見国」共通の呪術的シンボルであったならば、蝦夷の存亡をかけた最後の決戦に「日の丸」を掲げて朝廷軍を撃破しようとしたのは理解できることです。 虎塚古墳から蝦夷「日高見国」の滅亡まで約150年。古代のゆったりとした時間の流れの中では、たとえ室町時代の絵であっても古代の部類に入れた方が良いとと思い、ここにアップしました。 かろうじて北上地域に残存していた「日高見国」はこれ以後、「陸奥国」に塗りつぶされ歴史から消えます。 すべてはヤマトの朝廷によってかき消され、その実態をうかがうすべもなく、その存在すら疑わしく思われるようになりました。 歴史の改竄とは、歴史を単にねじ曲げるだけではなく、歴史そのものを奪うことも含まれます。 「日の丸」が天照大神を象徴しているという主張は歴史的には根拠がありません。 蝦夷とさげすまれた人々が、敵方である朝廷の始祖神・天照大神を旗印にしたなど信じられますか?。 少なくとも、この絵が描かれた室町時代では、白地に赤丸の「日の丸」が蝦夷の象徴であったことを疑う人がいなかったことを示しています。 それは平安京の貴族にとってある種「異様な文様」でしたから、後に強力な呪力がある文様として再利用されますが、それは後に述べます。 「日の丸」が好きな人はこの国宝である絵巻になぜかにまったく触れません。 「日の丸」推進派の筆頭である所功京都産業大学教授も、教授なのですから知っているはずでしょうが知らぬ振り。 「日の丸」好きな人は、できればこの絵巻も歴史から抹殺したいと思っているのでしょうか。国宝ですからそうもいきません。それともただ知らないだけなのでしょうか。 わが国最初の「白地に赤丸紋章」は東北の逆賊・蝦夷の紋章であったという伝承を無視して「日の丸」を語れるはずがありません。 だから無視を決め込んでいます。そういう態度は好きではありません。 #
by hangeshow
| 2008-09-03 18:26
| 古代
聖武天皇は文武天皇の息子で、父・文武は年始の朝賀の儀式、皇位継承の儀式、外交的な儀式などの重要儀式は超モダンな唐風デコレーションで飾り立てることを決め、それを皇室の伝統とした人物です。参照(12)文武天皇と『日の丸』
文武が死去したとき聖武は幼かったので、聖武が成人になるまで、祖母と伯母が順に皇位に立ちました。一族の期待を背負って即位した聖武ですが、病弱でノイローゼ気味でありました。 その聖武が唐にもない、つまり世界に例のない黄金の巨大な仏を国家財政を傾けて建立します。創建当時のこの大仏は黄金に輝いていました。 ![]() 画像元 http://www.rakuten.co.jp/cfc-co/515816/529995/1922771/ 創建当時の大仏殿と大仏の様子をCG(コンピュータ・グラフィックス)で再現したもので、わたしも見ましたが、それは見事なできばえでした。 大仏の正式な名前は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という聞きなれない名前です。というのもインドの太陽神・ヴァイローチャナを漢字に写しただけの名前だからで、もし訳するとすれば「太陽の輝きの仏」でしょうか。東大寺は華厳宗の総本山で、華厳経はこの毘盧遮那仏の教えを基本としています。 釈迦如来となったゴータマ・シッダルタを超えた宇宙の真理を体現したものがこの毘盧遮那仏で、その智慧の光で万物が輝き満たされる時に世界・宇宙は平和・平安が訪れるという教えです。 毘盧遮那仏では覚えにくいので単に盧遮那(るしゃな)仏、もっと省略すると遮那(しゃな)仏になります。源義経が鞍馬寺で修行しているときの名前は遮那王(しゃなおう)といいます。その意味は「光り輝く太陽の王子」。現代風に言えば「陽介」「光男」になりましょうか。 天災が続き、飢饉・疫病が流行し、朝廷内部では暗殺や反乱があいつぐ日々の中で、聖武はその打開策を、太陽の子孫であるにもかかわらず、皇祖神・天照大神に依拠するのではなく、当時の世界宗教である仏教の太陽仏に求めたのでした。 聖武は自ら「仏教の奴」と称し、沙弥勝満(しゃみしょうまん)という戒名まで生前に収得して本格的な仏教徒として過ごします。 今日の天皇は信教自由の枠外で、仏教徒になりたくともなれません。 聖武は全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じたことでも有名です。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」といいます。この寺では『金光明経』4巻または『金光明最勝王経』10巻の読経が義務付けられていました。 この二つのお経は旧訳と新訳の違いで元本はサンスクリット語(古代インド語)の『スヴァール・アプラー・サ(黄金の輝き)』であるそうです。 黄金の輝きが仏教の輝きであることは明らかで、それは金色の太陽(毘盧遮那仏)と結びつきます。 聖武は仏像の形をした黄金の太陽(毘盧遮那仏)を建立し、信仰したのですが情勢は好転せず、男子にも恵まれず、やむなく娘を皇太子にします。即位した娘が孝謙天皇で、大仏開眼供養(752年)は孝謙女帝の時のことです。聖武が主役を演じましたが‥。 それより前、『続日本紀』の聖武帝、天平四年(732年)正月の条に、「御大極殿受朝 天皇始服冕服」とあります。この年の正月に聖武は、始めて大極殿という宮殿で「袞冕(こんべん)」という礼服を着用したという記録です。 中国皇帝の礼服を 「袞冕(こんべん)」 と称します。日本の天皇も真似をして着るようになったという記録です。天皇の赤い礼服には金銀の日月紋章が描かれていました。参照 (9)天子の礼服にカラスの太陽 今日、すべての人が「洋服」を着て、内閣認証式の時には「燕尾服」を着るのが通例です。聖武を責めているのではありません。当時の世界標準に合わせたということです。 では、それ以前はどのような礼服だったのでしょうか。なにも記録はありませんが、古墳の出土品などから想像するに、学者は新羅(しらぎ。朝鮮統一王朝)王室の礼服に近かったろうと言います。 ![]() 画像は2002年の奈良国立博物館のポスターで、描かれている楽器が桑木阮咸です。http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002toku/shosoin/shosoin-1.htm 今は真っ黒になった円が二つ上部にあります。これもおそらく金銀の日月紋章でしょう。赤外線で調べたら、太陽には三本足カラスが、月にはガマ・ウサギ・月桂樹・臼の紋様があることがわかりました。参照(5)日輪にはカラス、月にはガマとウサギ 聖武天皇とその時代の中央貴族にとって、「太陽は赤くない。太陽は光り輝く黄金色である。」これが常識であった時代です。 参照 (10)キトラ古墳の日月は金銀 #
by hangeshow
| 2008-09-02 16:06
| 古代
(20) 武家の旗印・家紋の始まり
(19)紅白は治安維持の色 (18)紅白はおめでたい色か (17)「日の丸」デザインの扇 (16)武田家伝来の「日の丸」 (15)「日の丸」を掲げた蝦夷 (14)聖武天皇の黄金の太陽大仏 (13)装飾古墳と太陽 (12)文武天皇と『日の丸』 (11)薬師寺の日光菩薩 (10)キトラ古墳の日月は金銀 (9)天子の礼服にカラスの太陽 (8)飛鳥時代の太陽と月 (7)太陽を祭る熊野 (6)太陽を射落とす神事 (5)日輪にはカラス、月にはガマとウサギ (4)馬王堆遺跡の赤丸太陽 (3)古代中国の陰陽五行説と太陽 (2)太陽の色の違いは言語のちがい (1)太陽の色は赤いか #
by hangeshow
| 2008-09-02 15:56
| 古代
装飾古墳とは玄室(被葬者の眠る部屋)の内部が幾何学模様などで飾られた古墳のことで、盛り土をした古墳だけではなく、山腹に穴を掘った横穴式古墳も含みます。
全国に800基余りがあるそうで、そのうち約500基が九州にあります。鳥取・香川・神奈川などにもあり、茨城・福島・宮城にはかなりまとまって存在します。逆に古墳文化の頂点ともいうべき近畿地方にはあまりありません。 その中から二つ紹介します。一つは、茨城県・ひたちなか市埋蔵文化センターにレプリカがある虎塚古墳です。 ![]() 画像元:http://rains-photogallery.blog.so-net.ne.jp/2005-08-28 石室の天井は一面朱色のベンガラ(酸化第二鉄)で塗られ、東西南北の壁には白粘土が塗られて、その上に朱色のベンガラで幾何学紋様が描かれています。正面に二つの蛇の目模様があり、向かって左の壁(西壁)上部には朱色の丸が並んでいます。 その他、連続ウロコ文様、槍か鉾、靭、鞆、太刀、楯、馬具、武具と思われる文様が描かれているけれど、稚拙であまりこれが何だとははっきりしません。 被葬者を葬る時に、被葬者の死後の安寧を祈願する呪術的な意味合いが、これらの文様にはあったはずですが、今日まで解き明かされていません。 したがって勝手な想像をさせてもらえば、 正面の蛇の目模様は現実の太陽と月。太陽は日没と日の出を繰り返し、月はさらに満ち欠けを繰り返します。つまり生と死を繰り返します。この正面の文様は被葬者の再生復活を祈願する呪術的文様でありましょう。 西壁の朱色の9個の丸は、中国古代神話に登場する英雄ゲイに射落とされた太陽だと思います。 これは被葬者が英雄ゲイの末裔であることを誇らしく描いているものだ――と思いますが学者の答は「不明である」 さてもう1例は県立福島博物館にレプリカがある「清戸迫(きよとさく)横穴遺跡」福島県双葉郡双葉町 画像元http://www.town.futaba.fukushima.jp/gaido/m_kiyoto.htm ![]() それを絵に写し取ったのがこれ。 画像元http://www.shidou.fks.ed.jp/jiten/bunka/cgi-bin/bkdt.cgi?id=view&name=%C0%B6%B8%CD%A4%B5%A4%AF%B2%A3%B7%EA&addr=%C1%D0%CD%D5%C4%AE ![]() 画像中央のベンガラで描かれたグルグル巻が太陽である、と学者は明言していません。 学者は確実な証拠固めをしないと断定しませんから。 長髪を左右に束ねた髪型や、当時のふくらんだズボンを膝下で結わえた服装などかなりリアルです。 動物たちもリアルで、全体として狩りの図とみて間違いないでしょう。 すると、朱色のグルグル巻もその程度にリアルだとすれば、夕日の太陽だと思いますね。 グルグル巻きの先端が中央人物、おそらく被葬者の肩につながっていますから、太陽の子孫であることを自負していたのかもしれません。 死んだ部族長が生前、騎馬で、あるいは歩射で獲物をしとめている図で、優れた指導者であったことを顕彰して描いたものでしょう。 飛鳥の中央貴族の古墳は唐帝国由来の、あるいは朝鮮半島王室の古墳そっくりの、絢爛たる豪華なもので、日月は金銀で描かれていました。 その時期、中央から見れば辺境の地では素朴で呪術的な装飾古墳が築かれていました。 その中に描かれた朱色の丸印が太陽だとするならば「太陽は赤い」という古代中国以来の伝統がこの地に根付いていたといえます。 千葉・埼玉は赤い太陽を射落とす「お日射神事」が多く残っている地域でした。 隣接する茨城、あるいは福島・宮城まで太平洋海岸地域は「太陽は赤い」地域だったという仮説が、いつか証明されることを願っています。 一部の人は ” 「日の丸」は太陽で、昔から日本人は天照大神である太陽を拝んできた。その一番古い例は文武天皇の朝賀の式にある” などと言って、自らコケてしまうケースを先に紹介しました。 そのような人は決して玉虫厨子の赤丸太陽には触れませんし、この虎塚古墳の赤丸や清戸迫横穴のグルグル巻赤丸にも触れません。 辺境の地の赤丸太陽じゃ、権威がないから嫌なんでしょう。 それに、その赤丸太陽が天照大神とは無関係だったということがバレてしまいますから。 さて重大な指摘をしましょう。 白地に赤い「日の丸」の起源がここにあります。普通、赤丸太陽の中には三本足カラスがいますが、ここにはカラスがいません。 また「日の丸」太陽には光芒(日の光)が描かれないという特殊なデザインです。それがここにある太陽です。白地の壁に描かれたただの丸型太陽です。 朝廷の太陽は赤地に金丸です。白地に赤丸ではありません。 蝦夷(えみし)としてさげすまれ、時には征伐の対象になった北関東から東北の人々によって「白地に赤丸太陽」が生み出された--と思います。 #
by hangeshow
| 2008-09-01 14:54
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