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武家の紋章は南北朝時代から室町・戦国時代にかけてさまざまに変化発展していきます。家紋は苗字と違って庶民に対する規制がありませんでしたから、江戸時代には庶民の中にも浸透していきます。
現在、日本には家紋がいくつあるのか、専門家でもわからないそうです。美しい自然を大胆にデフォルメした家紋の中で、太陽をデザインした家紋はきわめてめずらしく、その家紋の人にわたしは出会ったことがありません。書物の中だけです。 ![]() 画像元:http://kaizan.blog68.fc2.com/blog-date-200707.html 「家紋の由来」http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/hiasi.html というサイトでは5種類の日紋を載せていますが、いずれも「日足紋」(ひあしもん、ひたるもん)といって太陽の光芒を描いています。日の光を「日足」といいます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 考えてみれば単なる丸印はこれ以上省略できませんが、それではそれが太陽である、月であるとすぐわかる人はいません。お盆だってお皿だって丸印になってしまいますから。 それで雲を配すれば、太陽か、月のどちらかに絞れます。 月は三日月にすれば見誤ることはありません。太陽は輝く光を描けばすぐわかります。 「日の丸」の赤丸を太陽であると疑いもなく信じている人が多いのですが、単なる丸印で太陽をデザインした家紋は存在しない――これは大変重要な問題です。 太陽には日足がある、これが日本的な太陽デザインの基本であり、普通の人の感覚です。 「日の丸」が国旗である理由として、農耕民族である日本人は太陽神である天照大神を信仰し感謝してきたからである--という説明を聞くことがあります。 太陽の恵みには農耕民は本当に感謝します。 しかし、太陽に多くの人民が感謝しながら、太陽をシンボルマークとする一族が少ないのはなぜなのでしょうか。 それは恐れ多いことだから、と言う説明では、日彰紋を家紋としていた武士は恐れを知らぬ「不逞の輩」となってしまいます。 日彰紋を家紋とした人々は反皇室の悪人だから日彰紋は少ないという説明では納得できません。 どうもすっきりしません。 もっとも単純な理由は、「日照りが恐い、雨が欲しい」、ではないでしょうか。 雨乞い祭(神事)は全国各地にありますが、「日照り祭」など聞いたことがありません。 昔の人々は太陽に対して、現代人が思うほど好感を寄せていなかった、という気がしています。 輝き続ける太陽は、それだけで農民にとっては恐怖の象徴です。 戦国時代には多くの「日の丸」が戦場にはためいていたではないかと反論する人がいるかもしれません。 しかし、それは太陽紋ではなく、「餅紋」です。まったく同じデザインのために混同してしまいます。 詳しくは戦国時代の項でお話します。 #
by hangeshow
| 2008-09-24 16:15
| 中世
![]() http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_satake.html 佐竹氏の家紋は「扇に月丸」ですが、、家紋は黒白で表すため「月丸」はときに「日の丸」に誤られることが多々あります。 『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、 「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝)咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる」とあります。 このことから「佐竹系図」では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とあるそうです。 佐竹氏は頼朝と同じ清和源氏で、『別本佐竹系図』には、「家紋、隆義までは白旗なり。秀義のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と初めから紋として賜ったように記しています。 しかし、頼朝から賜ったのは扇そのもので、それを旗に付けたことから次第に家紋に変化していったものです。 これと似た話が『源平盛衰記』に、畠山氏の家紋である「小紋村濃」の由来があります。 家系的には平家である畠山重忠は、頼朝の軍に加勢するタイミングを逸し、どうするか悩みます。 このままグズグズしていたら滅ぼされてしまうという助言にしたがい、決死の覚悟を決め、無紋の白旗を掲げて頼朝の下に参上しました。 これを頼朝が咎めたとき、重忠は 「この旗は源氏に仕えた先祖より伝わったもので、源氏御祝の旗として吉例と名付けて大事にしてきたものです。いま、参上にあたりこの吉例を差してきました」 と応えました。 重忠の言を聞いた頼朝は、それで良しとしたのでしょう。藍皮一文(紋)を下して旗に付けさせて、みずからの無紋の旗と区別させました。 以後、畠山氏は旗のシルシに小紋の藍皮を飾るようになったそうです。 無地の白旗を掲げて参集した武士を源頼朝はとがめて、それぞれ白旗に何かの印をつけることを要求しました。 無地無紋の白旗は源氏嫡流の自分だけが掲げる権利があることを強調したのです。配下の武士はあわてて何らかのマークを白旗に付けたことでしょう。 その何らかの印が、後にそれぞれの武家の家紋になっていくわけですが、このエピソードからこの時代はまだどの武家も固有の確立した家紋を所持していなかったことがわかります。 ![]() ![]() ちなみに島津氏は白旗に「十」を描いていました。丸に十文字を描くようになるのは、旗印が家紋として定着していく南北朝から室町時代のことのようです。 新田氏も足利氏も、それぞれ一つ引き、二つ引きを旗印にしていただけではなく、それは戦陣の幕営の幔幕(まんまく)の模様でもありました。それをミニチュアにして丸の中に納めたデザインが後に家紋として定着していきます。 鎌倉市の市章は「笹竜胆(ささりんどう)」です。源氏は笹竜胆、平家は揚羽蝶(あげはちょう)を紋章としていた、と思い込んでいる人が多いのですが誤解です。(下記に補足があります) 無地の白旗が頼朝の旗印だったということは、鎌倉将軍家には家紋がないということです。家紋がないことが高貴な印でした。 ![]() その話が本当ならば、鎌倉時代初期に北条氏は旗印(家紋)を定めたことになります。 それぞれの武家は、佐竹氏や畠山氏のように頼朝から咎めをうけぬように、大急ぎでそれぞれの旗印を定めた事情が透けて見えてくるようです。 家紋のなかった源氏嫡流は三代で滅びましたから、残った世の武家は皆、独自の旗印・家紋を持つようになります。 補足1: 源氏の笹竜胆と平家の揚羽蝶 ![]() つまり、頼朝が旗揚げをした時にはまだ笹竜胆を家紋にした清和源氏はいなかった。頼朝は清和源氏だから、この時点で頼朝が笹竜胆を家紋としていることはありえない、のだそうです。 後の時代に書かれた絵や江戸時代の歌舞伎で頼朝や義経を演じる時に「武士の服に家紋がないのはおかしい」と言って笹竜胆を勝手に付けてしまったから、そのイメージが定着したという説もあります。 新田氏や足利氏の無骨な家紋と比べると笹竜胆紋は貴族的な華やかさがあります。美しいデザインだと思います。頼朝や義経にはそれが似合うとはいえ、歴史的には正しくない――そう思います。 ![]() 平家嫡流が滅び、各地に残った平家末流の武家が、かつて本家の人々が愛した揚羽蝶紋様を自己の家紋にした例は多くあります。 平家は政権を握ってから平安貴族化してしまいますから、藤原各氏が牛車に特定の紋章を描いていたことも模倣します。 なかでも平維盛(清盛の孫)が牛車に描いた揚羽蝶は平家一統の象徴とみなされたそうですから、家紋として機能していたと言えなくもありません。 壇ノ浦で平家を指導した平知盛も揚羽蝶文様の衣服を着用していたそうです。 揚羽蝶文様は正倉院遺品にもあるそうですから、中国由来の紋章だという人もいます。 平家の先祖、平貞盛が天慶の乱を平定した時に天皇から下賜された鎧に揚羽蝶文様があったために、平家は揚羽蝶文様を愛するようになったとも言われています。 しかし、平家嫡流の人々がが個々人の好みを超えて、揚羽蝶紋を平家一門の家紋としていたという証拠はありません。 家紋という制度・概念がない時代ですから、それは当然のことです。 補足2: 頼朝の扇 頼朝が佐竹氏に与えた扇が何色かは記録がありませんが、月の紋の扇でしたから「青地に銀の満月」であったと推測します。日月を金銀の丸形で描くのが常識であり、その背景(地の色)は赤青で描いていました。 それが中国文化圏に属する人々のグローバルスタンダードです。 赤地に金丸の扇を与えなかったのは頼朝の不快感を表しているのでしょう。褒美に扇を与えるのならば、赤地に金丸扇が適切ですから。 青地に銀丸扇を与えたのは 「お前は格下だということを自覚せよ」ということだと思います。 補足3:幕末に復活する新田源氏の「大中黒一つ引き」 幕末に、国籍表示旗がない大型艦船は海賊・不審船とみなされて撃沈の対象になる、と聞かされた幕府は、日本国籍旗として新田氏の「大中黒一つ引き」を採用しようとした時期がありました。 この件にについては幕末の所で述べます。 #
by hangeshow
| 2008-09-22 11:20
| 中世
平家物語と禿(カムロ)
平安時代末期、おごる平家に対する不満は旧勢力の貴族の中だけではなく、その傍若無人ぶりに庶民も反感を強めていました。 それに対する清盛入道の取った手が『平家物語』に載っています。 清盛は雑用に使う十四歳から十六歳までの少年ばかり三百人をそろえて私設警察にしました。これらの少年はすべて髪を禿(かむろ)といってオカッパのように短く切りそろえ、赤い直垂(ひたたれ)を着せられていました。 彼らはいつも京の市中を徘徊していて、誰かが平氏の悪口を言ったり、政治批判を口にしたりしているのを耳にしようものなら、すぐに三百人の仲間を呼び集め、口にした者の家に乱入し、家具や衣類などを壊したり、破いたりして乱暴した上、六波羅へ引き立てていきました。 だから目に見たことも、心で知ったことも言葉に出して言う人は誰もいなくなりました。 「六波羅殿の禿」といえば、道を通る馬に乗ったひとも牛車の人も恐ろしいので、みな道を避けてやり過ごしました。 (原文) ――入道相国はかりごとに、十四五六ばかりの童部を三百人揃へて、髪を禿にきりまはし、赤き直垂を着せて、召し使はれけるが、京中にみちみちて往反しけり。おのづから、平家の御事をあしきさまに申す者有れば、一人聞き出ださるるほどこそ有れ、三百人に触れまはして、その家に乱れ入り、資材雑具を追捕して、その奴をからめて六波羅へ率てまゐる。されば、目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。「六波羅殿の禿」とだに言ひてければ、道をすぐる馬、車も、皆よけてぞとほしける。(かぶろの沙汰)―― かむろは赤い直垂の下に白いズボンのような袴をはいていましたから、紅白の服装をしたオカッパのかむろは恐ろしい存在であり、嫌われ者でした。 かむろは清盛の私設警察ですが、平安京の公式治安維持組織は検非違使(けびいし)です。 その配下の看督長(かどのおさ)は監獄の管理責任者でしたが、後に直接に罪人を捕縛する役も兼ねます。 その服装は「赤狩衣、白衣、布袴に白杖を持つ異形のいでたち」であったそうですから、紅白の服装は警察もしくは治安維持を示す配色だったといえます。 この時期は、赤と白の組合わせが、「悪人を懲らしめる」シンボルカラーであり、人々にとっては何かおぞましい配色であり、「おめでたい配色」ではありませんでした。 「日の丸」の白地に赤丸という配色の起源は、検非違使配下の看督長(かどのおさ)の服装、それを模したかむろの服装にあるとわたしは思っています。 赤(紅・朱)と白の組合わせの意味については今後も触れていきますが、赤と金、青と銀という配色と比べるとスッキリしていますが華やかさがありません。 蛇足:今日でも赤丸は駐在所・交番のシンボルマークで、玄関の上に赤丸電灯が灯っています。都会では縦長の赤蛍光灯になってしまいましたが。 赤は、「悪人を懲らしめる」シンボルカラーとして、平安時代以来、今日まで引き継がれています。 #
by hangeshow
| 2008-09-19 14:35
| 古代
「日の丸」は白地に紅(赤)で、それはおめでたい色の組合わせだという人がいます。
源氏の白旗は氏神である八幡大菩薩の色、平家の赤旗は朝廷軍(官軍)を示す色です。それで紅白は源平合戦、紅白歌合戦のように対抗する意味合いがあります。 一方、紅白幕、紅白餅のようにおめでたいという意味も確かにあります。合戦がおめでたいはずがありませんから、日本では矛盾したイメージを全く矛盾と感じないで双方とも自然に受けとめています。 おそらく同じ紅白でも起源が異なるのでしょう。しかし、今日では紅白歌合戦や紅白対抗試合はいくら双方が真剣に渡り合っても基本は親善大会ですから、紅白をわたしたちは「おめでたい色合い」だと普通に思っています。 結婚式などおめでたい席で金一封を渡す袋には紅白の水引が使われます。水引の起源は“――遣隋使の小野妹子が帰朝した時、随から朝廷への贈り物に紅白の麻紐が結ばれており、それから宮中での献上品は紅白の麻紐で結ぶ習慣が広がるようになった――”と水引製造会社のHPに書かれていましたが、この説はあまり信じられません。 中国では赤(紅)だけでおめでたい意味を表します。商売繁盛、家内安全、魔除け、無病息災、幸運などを赤一色で示します。 中国・台湾・香港の結婚式などの祝儀袋は赤一色で、幸運を祈願する決まり文句が金文字で示されています。赤と金がおめでたい色で、赤白ではありません。 中華街や中華料理店では紅地に金(黄)文字をよく見かけます。中国の国旗も赤地に金の星です。 北京オリンピックも赤と金にあふれていました。 中国で赤は慶事、白は弔事の色です。(日本でも白は死装束の色であり、喪服も白でした)ですから、紅白でおめでたいという意味を表すことはできません。 NHKの紅白歌合戦は中国でも放映されますが、結婚式と葬式の歌合戦という意味不明のタイトルになってしまいます。赤が女性で白が男性という区分けも理解不能のようです。陰陽五行説では男は赤、女が青で示します。 ですから随の使者が紅白の麻紐で献上品を結んでいたという話は「本当かな」と思ってしまいます。本当は紅白ではなく紅一色の紐であったとのではないでしょうか。水引は昔は「くれない」と呼ばれていたそうです。 一説によると海外輸出品には白いヒモでくくって他と区別したとあります。 すると随の使者の贈答品には、贈答用の赤いヒモと輸出用の白いヒモとで結ばれていた可能性はあります。 それを倭国の人々が「贈答には紅白」と勘違いしたという説なのですが、その真偽をわたしはしりません。 ![]() 画像:http://sousaku-mizuhiki-okuno.com/?mode=f7 ところが実物は紅白ではなく黒白の水引です。 黒く見える部分は良く見ると深緑色をしています。触れると指の湿気で色が指に移り「紅色」になります。 もしも「紅色」になるから「くれない」なのだとすると、紅白であるよりも一見すると黒白であるほうが由緒が正しく、紅白はその簡易版だといえます。 じつは葬式専用の幕だと思っている黒白幕(鯨幕)は紅白幕よりも歴史が古く、由緒正しい幕です。 数年前、皇室の女性が民間の男性と結婚するという慶事がありました。この時に宮内庁が用意した幕は黒白幕でした。 伏見稲荷、上下加茂神社、出雲大社など歴史の古い神社も祭事には黒白幕を張ります。 黒がおめでたい最高の色であるのは、すべての色を含んだ玄妙な色であるからで、漢の時代の中国皇帝の礼服がこの色でした。 「くれない」も一見すると黒なのだけれど、良く見ると緑色(陰)を含み、手に触ると赤く(陽)なるという点でまさに玄妙な色合いで、最高位の水引であるゆえんです。 おそらく黒白の「くれない」水引とこの黒白幕は同じ起源を持つものでしょう。 紅白が「おめでたい」配色になったのは「ある時期」(たぶん江戸時代)からであって、「ずっと昔から」ではありません。 「白地に赤い日の丸はおめでたい色」という解釈は現代の解釈であって、歴史的には正しくありません。 #
by hangeshow
| 2008-09-18 16:32
| 古代
次の文章はある小学校の教師の授業案の一部です。仮にA先生としましょう。
http://www.sanjo.nct9.ne.jp/yocchaki/kigai/hinomaru/hinomaru.html (●絵「源義朝」提示) 【説明】平安時代の末,武士が登場し始めた時代。 『愚管抄』という歴史の書物に,源義朝について次のような文があります。 「日出シタリケル紅ノ扇ヲハラハラトツカヒテ」(1156年の保元の乱で活躍した時の記述) (絵「源義朝の扇(予想図)」を示しながら) 【説明】それは,このように白地に薄い紅色の日の丸であったと言われています。 これがおよそ850年前です。 (●絵「源義経」提示) 【説明】源義経です。小さい頃の名前は「牛若丸」。 源義経が部下に与えたご褒美は, 「紅の日出したる扇」 でした。およそ820年前(1180年)。 最初は「白地に薄い紅色の日の丸」であったが、しだいに色が濃くなり、「紅の日の丸」になったと児童に教えています。 まったく別の人(Bさんとします)が別のところで “―――平安時代末期、保元の乱(1156年)に活躍した源義朝が「日出シタリケル紅ノ扇ヲハラハラトツカヒテ‥」と『愚管抄』に記されている。『本朝軍器考』によればこの扇は白地に雲母の地で薄い紅色の日の丸を表していた。 また『減配盛衰記』によれば鵯越の先駆けをした鷲尾常春に源義経が遣わした褒美は「皆紅の日出したる扇」であり―――“となっており、授業案とまったく同じ組み立てになっています。 A先生とBさんがまったく一致するのは、おなじタネ本を下敷きにしているからでしょう。 そのタネ本の記述が正しいかどうかの再検討はしなかった点も共通です。 タネ本の著者は(A先生、Bさんも)、 「紅の日出したる扇」を「紅の日輪が描かれた扇」と解釈していますが、間違いです。「日輪が描かれている紅の扇」と解釈せねばなりません。 Bさんはさらに続けて “――ほどなく屋島の合戦で那須与一宗高が射落とした扇も「みな紅の日いだしたる」濃い紅色の日の丸(日輪)であったと伝えられている――” と述べて、あたかも「白地に赤丸の扇」を射落としたかのような書き方です。これもタネ本の引き写しです。 Bさんが、もし「平家物語」を読んでいればそのような間違いをしなかったことでしょう。 那須与一の場面では「―――年の齢18,9ばかりなる女房の柳の五衣に紅の袴着たるが皆紅の扇の日出したるを船のせがひに挟み立て陸へ向かってぞ招きける――」 まったく疑問の余地無く「日輪が描かれている紅の扇」を射落としたのです。 この当時、朝廷文化では日月を金銀で表すのが常識ですから、日輪の色の記述がありません。記述の必要がないからこそ、それが金色だったと推測できます。 「紅の日輪」という新しい解釈をするならば、その根拠を示さねばなりません。 Bさんは、「義朝の扇」の根拠として『本朝軍器考』(江戸時代の新井白石の著書)を挙げていますが、おそらくタネ本の受け売りでご自分では調べていません。調べてみれば誤りに気づいたはずです。 『本朝軍器考』には「義朝」ではなく、先祖の「義家」の扇が載っています。タネ本は最初から間違っています。 しかも「薄い紅色」は地の色であって日の丸の色ではありません。日の丸の色は金だと明記されています。 原文:上野国新田後閑蔵源義家朝臣摺扇 表雲母地薄紅日径四寸金 裏雲母地月径四寸銀 骨十二本 訳文:上野国の新田氏の子孫である後閑家に保存されている源義家朝臣の摺扇 表は雲母地の薄紅。日の直径は四寸で金色。 裏も雲母地で月の直径は四寸の銀色 骨は十二本 新井白石は漢文の素養があるので、折りたためる扇を中国式に「摺扇」と書き留めています。 裏地の色は明記されていませんが、表が薄い赤ですから、裏は薄い青だったろうと思います。 日月を金銀で示すのは朝廷の伝統ですし、「太陽は赤、太陰は青」で示すのは中国古代の陰陽五行説をふまえたデザインです。 では義朝の扇は本当はどのようなものであったか? 『愚管抄』では「日出シタリケル紅ノ扇」と疑問の余地無く、日輪を(金で)描いた紅色の扇と表現しています。素直に読めばそうなります。 『平治物語』では「紅ノ扇ノ日出シタルヲ開キ」とありますから、もう間違いなく「日輪を(金で)描いた紅色の扇」だと考えるのが妥当です。 ところが、”源頼朝・義経の父、源義朝が使っていた扇が「日の丸」の起源であり、日の丸は薄紅色で、しだいに濃い赤丸に進化する。地の色は白だ”――というストーリーが「日の丸」普及・推進派の人々が好む筋書きです。 いまでは、“五条の大橋で弁慶を義経が懲らしめた時に使った扇子は「白地に赤丸」の扇子であった”などと言う人さえ出てきています。 ある高名な学者は、もしも源氏が敗れて平家が勝っていたら「赤地に白丸」が国旗になっていただろうなどと無責任なことを言っております。 しかしこのストーリーは歴史的には二重・三重の誤りを含んだもので、「日の丸」の歴史をゆがめたものです。誠実な態度ではありません。 A先生に申し上げます。薄紅色は太陽ではなく、地の色です。そこには金色の太陽が描かれていました。 鷲尾三郎に与えた扇は赤い扇であり、赤い太陽の扇ではありません。赤い扇に金色の太陽が描かれた扇を与えたのです。 「白地に赤丸」が定着するのは平安末期ではなく、江戸時代のことです。 A先生に教わった児童は歴史の真実からほど遠い知識を注入されました。 「日の丸・君が代」推進派の人たちは、なぜこのような初歩的な間違いを犯して、それをごり押しするのか理解に苦しみます。 「日の丸・君が代」が日本に定着するためには、正しい歴史理解が必要で、自分の思想に合致した都合の良い論説を宣伝するのは逆効果です。 教師にとって必要な資質に「大本営発表を信じるな」があります。真実は大本営にはありません。それが苦い歴史の教訓です。 #
by hangeshow
| 2008-09-12 09:43
| 古代
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