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![]() 日本最古を自称する「日の丸」はもう一つ、甲州武田家伝来のものがありますが、確実なものとしてはこちらだろうと思います。 画像元http://asahi.co.jp/rekishi/2008-02-18/01.htm 由来は、足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇が吉野に逃れる途中、旧西吉野村賀名生の郷士・堀孫太郎宅を仮皇居とし、その時に天皇から下賜されたものだそうです。 数年前までこの旗を「錦の御旗」と呼んでいたのですが、錦織ではなく絹布ですから最近は「日の丸御旗」と称しています。 堀家住宅に永らく保存されていましたが一度盗難にあい、それで警戒厳重な資料館が新設されたようです。 この旗については伝承以外に確実な資料がありません。 なかには「太平記」に書いてあるなどと言う人もいますが、「太平記」その他の資料にも記述がありません。 しかし昔から知られていたようで、江戸時代の松平定信の著書『集古十種』で“奈良の吉野郡あのう村に住む堀文夫氏蔵の「後醍醐天皇の日の丸の旗」”について触れています。 その概略を現代語にすれば “小幅の白布二片を縦に縫って縦長の長方形にし、縦156cm、横76cm。中央に朱色の日の丸が描かれており、上辺に五個、縦の一辺に六個の乳(ち)が着いている”と記されています。 乳(ち)とは旗の端に付ける小さな布で作った輪で、ここに旗竿を通します。そうすれば風があってもなくても旗の模様がみえます。 このスタイルで掲げる旗を「旗指物」といい、現代では「桃太郎旗」とも言われており、商店街やガソリンスタンドなどでもよく見かける日本的な旗の掲げ方です。 そこに学者は疑問の目を向けます。後醍醐天皇の時代は、幟(のぼり)という流れ旗の時代であり、乳のついた旗指物が登場するのは室町末期(戦国時代)だといいます。 するとこの「日の丸」の「後醍醐天皇が下賜した」という伝承が怪しくなります。 もっとも、後の時代に乳だけを加えて飾ったと言えなくもありませんが…。 疑惑の「日の丸」ではありますが、デザインの点から私は伝承通り後醍醐天皇が下賜した旗だろうと思っています。 というのは当時の旗は平家が亡びて以来、武家は白旗が基本で、そこに所属を示すマーク(家紋など)を黒で描いていました。赤でマークを描く事はありません。 前回、後醍醐天皇の頭上に輝く赤丸について、これは天皇の怒りのシンボルであり、怨敵調伏のシンボルであると述べました。 命からがら都を脱出して吉野に着き、土豪の堀家を仮皇居としたとき、当主・堀孫太郎に下賜して敵を倒せと命じたのではないかと思います 白地に赤丸という 当時としては例を見ない斬新なデザインは異形を好む後醍醐だからこそだと思います。 ろくな所持品もなく脱走したから錦の布地が手元になく、それで白地の絹布で代用したという説も一聴に値しますが、それではなぜ赤丸かを説明できません。 赤丸がポイントです。怒りに燃えている後醍醐は赤丸太陽を描きたかったのです。それには赤みを帯びた錦地は似合いません。 武家の白地にこそ赤丸太陽は映え、悲壮な感じ、怨敵調伏を演出することができます。 補足 この「日の丸」が従来の旗と本質的に意味が異なることに注意が必要です。 従来の旗は所属を示す旗で、敵味方に対して自分と一族郎党がここにいることを示していました。他の集団と区別する識別のための標識でした。 「日の丸」は相手に向かって、「お前は悪人だから滅ぼされる」という道徳的な審判の旗です。 もちろん掲げる方は道徳的な正義があるという前提です。 天皇=天照大神=大日如来による怒りの神罰仏罰を下すぞという脅迫・威嚇の旗です。 実際には神罰仏罰を加える役目は武士の軍隊ですから、武士の白旗に怒りの赤丸が描かれました。 怒りの赤丸太陽によって相手は焼き尽くされて滅ぶという呪術的な意味を持った旗です。
by hangeshow
| 2008-10-08 16:55
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