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![]() 教科書でも良く知られた後醍醐天皇の肖像画です。(清浄光寺蔵) 『異形の王権』とは網野善彦氏が後醍醐天皇の政治に対して名付け、後醍醐天皇本人とその政治を支えた人々が、当時の秩序・常識からはずれた「異形の人々」であったことを明らかにした本です。 この肖像画を良くよく見るとかなり奇妙なスタイルで、異形と言っても良いでしょう。 頭上にあるのは冕冠(べんかん)十二旒(りゅう)という天子だけが被ることができる中国風玉冠で、その上には真紅の太陽が輝いています。 通常、冕冠の上に太陽などはありません。 来ている服は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)とよばれる天皇だけが着用する服を着ており、その上に「王の袈裟」をつけています。 右手には五鈷杵(ごこしょ)、左手には金剛鈴という密教の法具を持っています。 天皇が座っている畳の下には獅子の絵が描かれています。これは仏が座す礼盤(らいばん)で、畳の上の敷物は仏の座す八葉蓮華の敷物ですから、天皇自身が仏であることを示している肖像画です。 天皇は何のつもりでこのような変なスタイルをとっているのでしょうか。 憎き鎌倉幕府を打倒するために、怨敵調伏の加持祈祷を天皇自身が行っている図です。実際、天皇は何度も自ら加持祈祷を行っておりました。 この時代の神道と仏教は分かちがたく融合しており、天皇が信じていたのは密教で、密教では大日如来=天照大神であり、それはまた太陽でもあります。 天皇は、「日本国皇帝、天照大神、大日如来の三位一体」の姿を表現するためにこのスタイルになり、かなりご機嫌の様子がうかがわれます。 この縦型掛け軸の上部には八幡大菩薩、天照皇大神、春日大明神の神号が、貼り付けてあります。 描かれた当初はなかったものと思われます。 これは「三社託宣」という当時流行した思想です。 簡単に言うと、天照皇大神は「正直」、八幡大菩薩は「清浄」、春日大明神は「慈悲」の教えを託宣しているというもので、当時の道徳律ともいえます。 なぜこれが肖像画に張り付いているのか、よくわかりません。 あるいは後醍醐天皇は正直・清浄・慈悲を体現している人物だという主張なのかもしれません。 さて問題は頭上にある謎の赤丸太陽です。 朝廷では従来、太陽は金色が伝統でした。聖徳太子の頃、中国伝来の赤丸太陽紋が玉虫厨子に描かれていまいしたが、天武王朝の頃から、日月は金銀でした。 その伝統を破って後醍醐天皇が赤丸太陽を採用したのは密教の曼荼羅絵の影響でしょう。大日如来は太陽であり、曼荼羅絵では赤く描かれることが多い。 この赤丸太陽は後醍醐天皇の怒りの象徴だと思います。 後醍醐天皇は自ら真っ赤に燃える太陽、火の玉になって怨敵・鎌倉幕府を焼き滅ぼそうと調伏の加持祈祷を行ったのでした。 ここにおいて、赤丸太陽と怨敵調伏が結びつきました。赤丸太陽マークは怨敵調伏、悪人を滅ぼす呪術的シンボルマークとして登場しました。 赤丸太陽デザインは、普段は金丸である太陽が烈火の如く怒った時の姿として、後醍醐天皇が考案したのだと断定して良いでしょう。 後醍醐天皇の怒りの赤丸模様を南朝方武士の白旗に描けば「日の丸」の原型となります。 補足1:大日如来と不動明王 大日如来坐像は黄金色で落ち着いたお姿で彫刻されている場合が多い。これは正義と恵みの如来でもあるからです。ところが大日如来がいったん激しく怒ると不動明王に変身します。 不動明王は剣と捕縄を持ち、怒りの炎の中におります。この炎は赤を基調とした色合いで描かれているのはご存知の通りです。悪を絶対に許さないというお姿です。 補足2:神風 元寇に際して鎌倉武士は奮闘して元軍を撃退しました。ところが朝廷は全国の寺社に敵国調伏の祈祷を行わせた成果だと信じておりました。神風が吹いたというのも朝廷や寺社筋から出たウワサです。 後醍醐天皇も、この姿で加持祈祷を行えば必ず幕府は滅びると確信していたことでしょう。
by hangeshow
| 2008-10-08 09:25
| 中世
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