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「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」は鎌倉時代の肥後国の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が作成したもので、文永(1274年)・弘安(1281年)の役の様子が絵と詞書に克明に記録されています。
同時代の資料として貴重で国宝に指定されています。 原本は現在、宮内庁所蔵ですが、九州大学附属図書館所蔵の模本がHPで公開されています。 http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html ![]() 季長が奮戦しているこの場面は教科書に掲載されていますから多くの人が見たことがあるでしょう。 もっともこの有名な場面は江戸時代の加筆だと言う説が最近では有力になっています。 さて外国軍の進入に際して幕府軍が統一した旗の下で闘った様子はこの絵詞からはうかがうことはできません。 武士はみな白旗です。血筋が平家であっても源氏(幕府)に加勢した時は白旗という習慣ができており、幕府の執権が北条氏(平家)であってもその習慣が続いていました。つまり、武士の旗は白旗、これが当時の常識です。 所属を示すために家紋が染められた旗や、横二本の黒線が入っていたり、裾が黒く塗り分けられた旗もあります。 次の図2枚は季長が志賀島へ向けて「生の松原」を出発する場面です。 騎馬武者に対して防塁として築いた石垣にの上にいる武者が挨拶をしていますが、その数名が扇子を手にしています。 ![]() ![]() 左が九州大学図書館の模本。右が埼玉県立歴史と民族博物館所蔵の模本です。 同じ場面でも、石垣に腰掛けているの武士が持つ扇が違います。 左図の武将は単なる 「赤扇」ですが 右図では 「赤地に金丸」扇を持っています。 どちらの模本が原本に近いのか、あるいは原本には元々金丸が描かれていたのか、学者の説は色々あるようです。 原本は一度水に浸かってかなり破損したのものを江戸時代に修復したそうですから、金丸の色が抜けてしまったと判断した画家が描いた模本が埼玉の博物館にあるのでしょう。 九州大学付属図書館版でも船上の武士が赤地金丸扇を持っていましたから、原本はみな「赤地金丸」扇だったのではないかとわたしは思います。 平安時代末期の源平合戦以来、この頃まで「赤地金丸」扇が武士の持つ伝統的な扇であったのでしょう。 牛若丸が「白地に赤丸」扇で弁慶を懲らしめたなどという一部の人が主張する説は、まったく根拠のない、時代錯誤の説であることを「蒙古襲来絵詞」が証明しています。 少なくとも誰一人として「白地に赤丸」扇を持っている武将は描かれていません。 一方、元軍(モンゴル・高麗・旧南宋連合軍)は「日の丸」の乱立です。「日の丸」旗が元軍の旗であったことは疑い得ません。 以下3図はすべてモンゴル軍を描いています。 ![]() ![]() ![]() 「日の丸」は数種類あります。赤地に金丸、白地に金丸、赤地白丸、黄地白丸、赤地金丸青縁取りなどで、多くは単なる長方形ではなく、周囲にヒレヒレがたくさん付いています。またペナント型の三角形の旗もあります。矢を防ぐ盾にも丸印が描かれ、舳先にも複数の丸印が描かれています。 元軍の「日の丸」はおそらく日月旗でありましょう。日本的デザインと違いますからなかなか日と月の区別ができません。 日本を含め、中国文化圏では日月は皇帝のシンボルマークですから元軍がこの旗を正面に押し立ててきたのは当然です。中国版の錦の御旗です。 「日の丸」は元軍の旗印--これは鎌倉武士に深い印象を与えたことは想像に難くありません。そして教科書執筆者や「日の丸」研究者にとってこの事実は明々白々なのに誰も国民に語ろうとしないのは不思議なことです。 「日の丸」は天照大神の象徴と考える人々にとって、それが元軍の象徴であったことは語りたくない歴史の事実なのでしょう。 皇帝が現場にいないのに日月旗が戦場にあるという元軍のスタイルを、後に後醍醐天皇が採用します。 後醍醐天皇とその皇子は日月旗(錦の御旗)を乱発して鎌倉幕府と闘い、さらには足利尊氏の室町幕府(北朝側の武士)と戦い続けました。 この件は後に詳しく述べます。
by hangeshow
| 2008-09-30 20:16
| 中世
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