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![]() " 錦の御旗(にしきのみはた)とは、朝廷の軍(官軍)の旗印。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に下賜する慣習がある。承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、歴史上の錦旗の初見とされる。 " この図は幕末に官軍が使用したもので、赤の錦地に金色の日像を配し、「天照皇太神」と金文字で記されています。 では錦旗の初見とされる後鳥羽上皇が配下の武将に与えた旗はどのようなものであったでしょうか。 その前に承久の乱について復習してみましょう。 源氏が三代で滅びた時に朝廷は幕府を解体して日本全土を朝廷が支配する絶好の機会と考えました。執権・北条義時追討の命令を出せば全国の武士がはせ参じてくると皮算用をはじいていたのですが、案に相違して幕府軍のすばやい動きによって京都は20万の軍勢で制圧されてしまいました。 戦後処理は大変厳しいもので、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐国に配流。後鳥羽上皇の皇子たちも配流。天皇(御年3歳)は更迭。上級公家六人が死罪、朝廷に加担した武家の多くが死罪と決し、上皇の膨大な荘園や反幕府に属した公家の荘園、武士の領地は没収されました。 上皇や天皇、朝廷がかつては家来筋であった武家によって処分されるなどは前代未聞の出来事でした。 この事件以後、朝廷は幕府に頭が上がらなくなり、次期天皇の人事を含め宮廷の人事はすべて幕府の意見をきいてからとなってしまいます。 この時、朝廷軍と幕府軍との戦闘では「錦の御旗」はあがったのでしょうか。 というのも東海道方面軍司令官であった北条泰時が、出陣翌日に単騎舞い戻り、「もしも思いもかけず天皇が錦の御旗を立てて出てきたらどうしたら良いでしょうか、それを尋ねに一人で戻りました」と義時に聞く場面が『増鏡』にあります。 義時はしばらく考えた後、「その時は兜をぬぎ、弓の弦を切ってひたすらかしこみ、身を天皇に預けよ。天皇がいなければ命を捨てる覚悟で戦え」というと最後まで聞くか聞かないかのうちに泰時は急いで出立したそうです。 『増鏡』にあるこの有名なエピソードは事実を伝えているのか信憑性に疑問を持たれています。天皇の前に出たらひたすらに控えなさいという勤皇の武士(義時)と、天皇を更迭し、上皇らを流罪・死罪に処した義時とが結びつかないからです。 『増鏡』の原文を読んでみると“――もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重(げんぢよう)なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。――”とあります。 鳳輦とは天皇が乗る神輿で、その前に御旗がある、というスタイルが当時の天皇の外出の様子で、この場合の御旗は軍旗というよりも、天皇がここに来ているぞということを周囲に知らせる旗です。 この御旗は「日月旗(じつがつき)」とよばれ、日月は金銀の円形、地の色は双方とも朝廷を意味する赤色。日月二旒でワンセット。そもそも軍旗ではありません。 (文頭の図は赤地に金色太陽紋章の錦の御旗。銀丸の太陰紋章と一対になるべきもの) 北条泰時が父・義時にたずねたのは「万一、天皇出御を示す日月旗が戦場にあったらどうするか」であり、義時が応じるのにやや間があったのは「それはありえない」という結論を出すまでの時間だったのでしょう。 義時の予想通り、後鳥羽上皇は敗戦が確実となると御所に逃げ込み門を閉ざして味方の武将も追い返してしまいます。仮に御旗が出たとしても、鎌倉勢の目には留まる間もなく引っ込んでしまったのでしょう。 『ウィキペディア』を見た人は、承久の乱に際してこの日月旗を軍旗として武将に与えたかのような印章を持つと思います。それは事実に反します。 日月旗はいつも天皇と一緒にあるべきもので、これを武将に与えることはありません。 幕末の場合、薩長がグルになって「日月旗もどき」を勝手に大量に作って薩長が官軍、幕府は賊軍というイメージアップに成功しました。これを普通は「錦の御旗」といいます。文頭の図を良く見てください。「天照皇太神」の文字があります。本来の日月旗にはこのような文字はありません。 では承久の乱で、朝廷軍は「日月旗もどき」を掲げたのでしょうか。 「日月旗もどき」は戦場に掲げられませんでした。 『承久兵乱記』によれば(原文のかなを漢字にしました--筆者) ![]() ※右図が金剛鈴 とありますから、無紋の赤地錦の旗の端にスカーフ状の布を巻き、密教法具の鈴をつけ、不動明王や持国天、増長天、広目天、多聞天(四天王)の文字を描いた旗のようです。 しかし、これでは何の旗だかわかりませんから、坂東武者には何の効果もなかったことでしょう。 ともあれ、天皇(上皇)が武将に与えた軍旗であり、錦の布だったのですから“最初の「錦の御旗」だった”ことは間違いではありません。 しかし、注釈無しに、錦の御旗の初見と言えば、幕末の日月紋章の旗を思い出してしまいます。 最初の錦の御旗は異様な旗だったと『ウィキペディア』は記述すべきです。 補足1:武田家の「日の丸」 甲州・武田家伝来の家宝「日の丸」が前九年の役(1051年)に際して下賜された旗ならば、武田家が最古の「御旗」になるはずですが、布地は錦ではないので「錦の御旗」とは言わずに単に「御旗」です。 しかし、後鳥羽上皇が与えた御旗が「赤地錦に領布と金剛鈴をつけたもの」という、まだ内容も形式も整っていない旗だったのに対して、武田家の「日の丸」はデザイン的に完成されています。 その点でも武田家の伝承には疑問符がつきます。(16)武田家伝来の「日の丸」参照 補足2:天皇に弓引く武士 かつて那須与一が射った扇は赤地に金色太陽紋の扇でした。赤地は朝廷を示し、金丸は天皇を示します。平家は朝廷(天皇)に弓引くのか、と挑発したのです。 しかも扇は神を招く神具という意味を持ったものですから、この扇を射るか、はずすか神の意志が現れると現場の源平の武士は思いました。 与一が射ることができたのは、天皇に弓引くのではなく、この時にはもう京都に新(後鳥羽)天皇がおりましたから、安徳帝は元天皇(それはもうタダの人)にすぎません。 恐れることはない、あとは南無八幡大菩薩というわけです。 承久の乱の上皇配流も同じ手法がとられています。 後鳥羽の兄で出家していた行助(ぎょうじょ)法親王を説得して還俗(げんぞく)させ、いきなり上皇の位に据え「治天の君」としました。これが後高倉院(上皇)で、天皇経験のない上皇は史上初めてです。 次にこの後高倉院の子を幕府は天皇にしました。後堀河天皇です。 こうなれば、三上皇は 「元天皇というただの人」 にすぎませんから、遠慮無く配流が決められたのでした。 補足3:日月旗 原文に「かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先立てて御旗をあげられ」とある「御旗」を日月旗と述べましたが、後鳥羽上皇の時代に御旗が日月旗のデザインとして確立していた--という確証はありません。後醍醐天皇の頃はもう日月旗です。
by hangeshow
| 2008-09-26 09:53
| 中世
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