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![]() http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_satake.html 佐竹氏の家紋は「扇に月丸」ですが、、家紋は黒白で表すため「月丸」はときに「日の丸」に誤られることが多々あります。 『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、 「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝)咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる」とあります。 このことから「佐竹系図」では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とあるそうです。 佐竹氏は頼朝と同じ清和源氏で、『別本佐竹系図』には、「家紋、隆義までは白旗なり。秀義のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と初めから紋として賜ったように記しています。 しかし、頼朝から賜ったのは扇そのもので、それを旗に付けたことから次第に家紋に変化していったものです。 これと似た話が『源平盛衰記』に、畠山氏の家紋である「小紋村濃」の由来があります。 家系的には平家である畠山重忠は、頼朝の軍に加勢するタイミングを逸し、どうするか悩みます。 このままグズグズしていたら滅ぼされてしまうという助言にしたがい、決死の覚悟を決め、無紋の白旗を掲げて頼朝の下に参上しました。 これを頼朝が咎めたとき、重忠は 「この旗は源氏に仕えた先祖より伝わったもので、源氏御祝の旗として吉例と名付けて大事にしてきたものです。いま、参上にあたりこの吉例を差してきました」 と応えました。 重忠の言を聞いた頼朝は、それで良しとしたのでしょう。藍皮一文(紋)を下して旗に付けさせて、みずからの無紋の旗と区別させました。 以後、畠山氏は旗のシルシに小紋の藍皮を飾るようになったそうです。 無地の白旗を掲げて参集した武士を源頼朝はとがめて、それぞれ白旗に何かの印をつけることを要求しました。 無地無紋の白旗は源氏嫡流の自分だけが掲げる権利があることを強調したのです。配下の武士はあわてて何らかのマークを白旗に付けたことでしょう。 その何らかの印が、後にそれぞれの武家の家紋になっていくわけですが、このエピソードからこの時代はまだどの武家も固有の確立した家紋を所持していなかったことがわかります。 ![]() ![]() ちなみに島津氏は白旗に「十」を描いていました。丸に十文字を描くようになるのは、旗印が家紋として定着していく南北朝から室町時代のことのようです。 新田氏も足利氏も、それぞれ一つ引き、二つ引きを旗印にしていただけではなく、それは戦陣の幕営の幔幕(まんまく)の模様でもありました。それをミニチュアにして丸の中に納めたデザインが後に家紋として定着していきます。 鎌倉市の市章は「笹竜胆(ささりんどう)」です。源氏は笹竜胆、平家は揚羽蝶(あげはちょう)を紋章としていた、と思い込んでいる人が多いのですが誤解です。(下記に補足があります) 無地の白旗が頼朝の旗印だったということは、鎌倉将軍家には家紋がないということです。家紋がないことが高貴な印でした。 ![]() その話が本当ならば、鎌倉時代初期に北条氏は旗印(家紋)を定めたことになります。 それぞれの武家は、佐竹氏や畠山氏のように頼朝から咎めをうけぬように、大急ぎでそれぞれの旗印を定めた事情が透けて見えてくるようです。 家紋のなかった源氏嫡流は三代で滅びましたから、残った世の武家は皆、独自の旗印・家紋を持つようになります。 補足1: 源氏の笹竜胆と平家の揚羽蝶 ![]() つまり、頼朝が旗揚げをした時にはまだ笹竜胆を家紋にした清和源氏はいなかった。頼朝は清和源氏だから、この時点で頼朝が笹竜胆を家紋としていることはありえない、のだそうです。 後の時代に書かれた絵や江戸時代の歌舞伎で頼朝や義経を演じる時に「武士の服に家紋がないのはおかしい」と言って笹竜胆を勝手に付けてしまったから、そのイメージが定着したという説もあります。 新田氏や足利氏の無骨な家紋と比べると笹竜胆紋は貴族的な華やかさがあります。美しいデザインだと思います。頼朝や義経にはそれが似合うとはいえ、歴史的には正しくない――そう思います。 ![]() 平家嫡流が滅び、各地に残った平家末流の武家が、かつて本家の人々が愛した揚羽蝶紋様を自己の家紋にした例は多くあります。 平家は政権を握ってから平安貴族化してしまいますから、藤原各氏が牛車に特定の紋章を描いていたことも模倣します。 なかでも平維盛(清盛の孫)が牛車に描いた揚羽蝶は平家一統の象徴とみなされたそうですから、家紋として機能していたと言えなくもありません。 壇ノ浦で平家を指導した平知盛も揚羽蝶文様の衣服を着用していたそうです。 揚羽蝶文様は正倉院遺品にもあるそうですから、中国由来の紋章だという人もいます。 平家の先祖、平貞盛が天慶の乱を平定した時に天皇から下賜された鎧に揚羽蝶文様があったために、平家は揚羽蝶文様を愛するようになったとも言われています。 しかし、平家嫡流の人々がが個々人の好みを超えて、揚羽蝶紋を平家一門の家紋としていたという証拠はありません。 家紋という制度・概念がない時代ですから、それは当然のことです。 補足2: 頼朝の扇 頼朝が佐竹氏に与えた扇が何色かは記録がありませんが、月の紋の扇でしたから「青地に銀の満月」であったと推測します。日月を金銀の丸形で描くのが常識であり、その背景(地の色)は赤青で描いていました。 それが中国文化圏に属する人々のグローバルスタンダードです。 赤地に金丸の扇を与えなかったのは頼朝の不快感を表しているのでしょう。褒美に扇を与えるのならば、赤地に金丸扇が適切ですから。 青地に銀丸扇を与えたのは 「お前は格下だということを自覚せよ」ということだと思います。 補足3:幕末に復活する新田源氏の「大中黒一つ引き」 幕末に、国籍表示旗がない大型艦船は海賊・不審船とみなされて撃沈の対象になる、と聞かされた幕府は、日本国籍旗として新田氏の「大中黒一つ引き」を採用しようとした時期がありました。 この件にについては幕末の所で述べます。
by hangeshow
| 2008-09-22 11:20
| 中世
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