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次の文章はある小学校の教師の授業案の一部です。仮にA先生としましょう。
http://www.sanjo.nct9.ne.jp/yocchaki/kigai/hinomaru/hinomaru.html (●絵「源義朝」提示) 【説明】平安時代の末,武士が登場し始めた時代。 『愚管抄』という歴史の書物に,源義朝について次のような文があります。 「日出シタリケル紅ノ扇ヲハラハラトツカヒテ」(1156年の保元の乱で活躍した時の記述) (絵「源義朝の扇(予想図)」を示しながら) 【説明】それは,このように白地に薄い紅色の日の丸であったと言われています。 これがおよそ850年前です。 (●絵「源義経」提示) 【説明】源義経です。小さい頃の名前は「牛若丸」。 源義経が部下に与えたご褒美は, 「紅の日出したる扇」 でした。およそ820年前(1180年)。 最初は「白地に薄い紅色の日の丸」であったが、しだいに色が濃くなり、「紅の日の丸」になったと児童に教えています。 まったく別の人(Bさんとします)が別のところで “―――平安時代末期、保元の乱(1156年)に活躍した源義朝が「日出シタリケル紅ノ扇ヲハラハラトツカヒテ‥」と『愚管抄』に記されている。『本朝軍器考』によればこの扇は白地に雲母の地で薄い紅色の日の丸を表していた。 また『減配盛衰記』によれば鵯越の先駆けをした鷲尾常春に源義経が遣わした褒美は「皆紅の日出したる扇」であり―――“となっており、授業案とまったく同じ組み立てになっています。 A先生とBさんがまったく一致するのは、おなじタネ本を下敷きにしているからでしょう。 そのタネ本の記述が正しいかどうかの再検討はしなかった点も共通です。 タネ本の著者は(A先生、Bさんも)、 「紅の日出したる扇」を「紅の日輪が描かれた扇」と解釈していますが、間違いです。「日輪が描かれている紅の扇」と解釈せねばなりません。 Bさんはさらに続けて “――ほどなく屋島の合戦で那須与一宗高が射落とした扇も「みな紅の日いだしたる」濃い紅色の日の丸(日輪)であったと伝えられている――” と述べて、あたかも「白地に赤丸の扇」を射落としたかのような書き方です。これもタネ本の引き写しです。 Bさんが、もし「平家物語」を読んでいればそのような間違いをしなかったことでしょう。 那須与一の場面では「―――年の齢18,9ばかりなる女房の柳の五衣に紅の袴着たるが皆紅の扇の日出したるを船のせがひに挟み立て陸へ向かってぞ招きける――」 まったく疑問の余地無く「日輪が描かれている紅の扇」を射落としたのです。 この当時、朝廷文化では日月を金銀で表すのが常識ですから、日輪の色の記述がありません。記述の必要がないからこそ、それが金色だったと推測できます。 「紅の日輪」という新しい解釈をするならば、その根拠を示さねばなりません。 Bさんは、「義朝の扇」の根拠として『本朝軍器考』(江戸時代の新井白石の著書)を挙げていますが、おそらくタネ本の受け売りでご自分では調べていません。調べてみれば誤りに気づいたはずです。 『本朝軍器考』には「義朝」ではなく、先祖の「義家」の扇が載っています。タネ本は最初から間違っています。 しかも「薄い紅色」は地の色であって日の丸の色ではありません。日の丸の色は金だと明記されています。 原文:上野国新田後閑蔵源義家朝臣摺扇 表雲母地薄紅日径四寸金 裏雲母地月径四寸銀 骨十二本 訳文:上野国の新田氏の子孫である後閑家に保存されている源義家朝臣の摺扇 表は雲母地の薄紅。日の直径は四寸で金色。 裏も雲母地で月の直径は四寸の銀色 骨は十二本 新井白石は漢文の素養があるので、折りたためる扇を中国式に「摺扇」と書き留めています。 裏地の色は明記されていませんが、表が薄い赤ですから、裏は薄い青だったろうと思います。 日月を金銀で示すのは朝廷の伝統ですし、「太陽は赤、太陰は青」で示すのは中国古代の陰陽五行説をふまえたデザインです。 では義朝の扇は本当はどのようなものであったか? 『愚管抄』では「日出シタリケル紅ノ扇」と疑問の余地無く、日輪を(金で)描いた紅色の扇と表現しています。素直に読めばそうなります。 『平治物語』では「紅ノ扇ノ日出シタルヲ開キ」とありますから、もう間違いなく「日輪を(金で)描いた紅色の扇」だと考えるのが妥当です。 ところが、”源頼朝・義経の父、源義朝が使っていた扇が「日の丸」の起源であり、日の丸は薄紅色で、しだいに濃い赤丸に進化する。地の色は白だ”――というストーリーが「日の丸」普及・推進派の人々が好む筋書きです。 いまでは、“五条の大橋で弁慶を義経が懲らしめた時に使った扇子は「白地に赤丸」の扇子であった”などと言う人さえ出てきています。 ある高名な学者は、もしも源氏が敗れて平家が勝っていたら「赤地に白丸」が国旗になっていただろうなどと無責任なことを言っております。 しかしこのストーリーは歴史的には二重・三重の誤りを含んだもので、「日の丸」の歴史をゆがめたものです。誠実な態度ではありません。 A先生に申し上げます。薄紅色は太陽ではなく、地の色です。そこには金色の太陽が描かれていました。 鷲尾三郎に与えた扇は赤い扇であり、赤い太陽の扇ではありません。赤い扇に金色の太陽が描かれた扇を与えたのです。 「白地に赤丸」が定着するのは平安末期ではなく、江戸時代のことです。 A先生に教わった児童は歴史の真実からほど遠い知識を注入されました。 「日の丸・君が代」推進派の人たちは、なぜこのような初歩的な間違いを犯して、それをごり押しするのか理解に苦しみます。 「日の丸・君が代」が日本に定着するためには、正しい歴史理解が必要で、自分の思想に合致した都合の良い論説を宣伝するのは逆効果です。 教師にとって必要な資質に「大本営発表を信じるな」があります。真実は大本営にはありません。それが苦い歴史の教訓です。
by hangeshow
| 2008-09-12 09:43
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