カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
![]() 日本最古を自称する「日の丸」はもう一つ、甲州武田家伝来のものがありますが、確実なものとしてはこちらだろうと思います。 画像元http://asahi.co.jp/rekishi/2008-02-18/01.htm 由来は、足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇が吉野に逃れる途中、旧西吉野村賀名生の郷士・堀孫太郎宅を仮皇居とし、その時に天皇から下賜されたものだそうです。 数年前までこの旗を「錦の御旗」と呼んでいたのですが、錦織ではなく絹布ですから最近は「日の丸御旗」と称しています。 堀家住宅に永らく保存されていましたが一度盗難にあい、それで警戒厳重な資料館が新設されたようです。 この旗については伝承以外に確実な資料がありません。 なかには「太平記」に書いてあるなどと言う人もいますが、「太平記」その他の資料にも記述がありません。 しかし昔から知られていたようで、江戸時代の松平定信の著書『集古十種』で“奈良の吉野郡あのう村に住む堀文夫氏蔵の「後醍醐天皇の日の丸の旗」”について触れています。 その概略を現代語にすれば “小幅の白布二片を縦に縫って縦長の長方形にし、縦156cm、横76cm。中央に朱色の日の丸が描かれており、上辺に五個、縦の一辺に六個の乳(ち)が着いている”と記されています。 乳(ち)とは旗の端に付ける小さな布で作った輪で、ここに旗竿を通します。そうすれば風があってもなくても旗の模様がみえます。 このスタイルで掲げる旗を「旗指物」といい、現代では「桃太郎旗」とも言われており、商店街やガソリンスタンドなどでもよく見かける日本的な旗の掲げ方です。 そこに学者は疑問の目を向けます。後醍醐天皇の時代は、幟(のぼり)という流れ旗の時代であり、乳のついた旗指物が登場するのは室町末期(戦国時代)だといいます。 するとこの「日の丸」の「後醍醐天皇が下賜した」という伝承が怪しくなります。 もっとも、後の時代に乳だけを加えて飾ったと言えなくもありませんが…。 疑惑の「日の丸」ではありますが、デザインの点から私は伝承通り後醍醐天皇が下賜した旗だろうと思っています。 というのは当時の旗は平家が亡びて以来、武家は白旗が基本で、そこに所属を示すマーク(家紋など)を黒で描いていました。赤でマークを描く事はありません。 前回、後醍醐天皇の頭上に輝く赤丸について、これは天皇の怒りのシンボルであり、怨敵調伏のシンボルであると述べました。 命からがら都を脱出して吉野に着き、土豪の堀家を仮皇居としたとき、当主・堀孫太郎に下賜して敵を倒せと命じたのではないかと思います 白地に赤丸という 当時としては例を見ない斬新なデザインは異形を好む後醍醐だからこそだと思います。 ろくな所持品もなく脱走したから錦の布地が手元になく、それで白地の絹布で代用したという説も一聴に値しますが、それではなぜ赤丸かを説明できません。 赤丸がポイントです。怒りに燃えている後醍醐は赤丸太陽を描きたかったのです。それには赤みを帯びた錦地は似合いません。 武家の白地にこそ赤丸太陽は映え、悲壮な感じ、怨敵調伏を演出することができます。 補足 この「日の丸」が従来の旗と本質的に意味が異なることに注意が必要です。 従来の旗は所属を示す旗で、敵味方に対して自分と一族郎党がここにいることを示していました。他の集団と区別する識別のための標識でした。 「日の丸」は相手に向かって、「お前は悪人だから滅ぼされる」という道徳的な審判の旗です。 もちろん掲げる方は道徳的な正義があるという前提です。 天皇=天照大神=大日如来による怒りの神罰仏罰を下すぞという脅迫・威嚇の旗です。 実際には神罰仏罰を加える役目は武士の軍隊ですから、武士の白旗に怒りの赤丸が描かれました。 怒りの赤丸太陽によって相手は焼き尽くされて滅ぶという呪術的な意味を持った旗です。 #
by hangeshow
| 2008-10-08 16:55
| 中世
![]() 教科書でも良く知られた後醍醐天皇の肖像画です。(清浄光寺蔵) 『異形の王権』とは網野善彦氏が後醍醐天皇の政治に対して名付け、後醍醐天皇本人とその政治を支えた人々が、当時の秩序・常識からはずれた「異形の人々」であったことを明らかにした本です。 この肖像画を良くよく見るとかなり奇妙なスタイルで、異形と言っても良いでしょう。 頭上にあるのは冕冠(べんかん)十二旒(りゅう)という天子だけが被ることができる中国風玉冠で、その上には真紅の太陽が輝いています。 通常、冕冠の上に太陽などはありません。 来ている服は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)とよばれる天皇だけが着用する服を着ており、その上に「王の袈裟」をつけています。 右手には五鈷杵(ごこしょ)、左手には金剛鈴という密教の法具を持っています。 天皇が座っている畳の下には獅子の絵が描かれています。これは仏が座す礼盤(らいばん)で、畳の上の敷物は仏の座す八葉蓮華の敷物ですから、天皇自身が仏であることを示している肖像画です。 天皇は何のつもりでこのような変なスタイルをとっているのでしょうか。 憎き鎌倉幕府を打倒するために、怨敵調伏の加持祈祷を天皇自身が行っている図です。実際、天皇は何度も自ら加持祈祷を行っておりました。 この時代の神道と仏教は分かちがたく融合しており、天皇が信じていたのは密教で、密教では大日如来=天照大神であり、それはまた太陽でもあります。 天皇は、「日本国皇帝、天照大神、大日如来の三位一体」の姿を表現するためにこのスタイルになり、かなりご機嫌の様子がうかがわれます。 この縦型掛け軸の上部には八幡大菩薩、天照皇大神、春日大明神の神号が、貼り付けてあります。 描かれた当初はなかったものと思われます。 これは「三社託宣」という当時流行した思想です。 簡単に言うと、天照皇大神は「正直」、八幡大菩薩は「清浄」、春日大明神は「慈悲」の教えを託宣しているというもので、当時の道徳律ともいえます。 なぜこれが肖像画に張り付いているのか、よくわかりません。 あるいは後醍醐天皇は正直・清浄・慈悲を体現している人物だという主張なのかもしれません。 さて問題は頭上にある謎の赤丸太陽です。 朝廷では従来、太陽は金色が伝統でした。聖徳太子の頃、中国伝来の赤丸太陽紋が玉虫厨子に描かれていまいしたが、天武王朝の頃から、日月は金銀でした。 その伝統を破って後醍醐天皇が赤丸太陽を採用したのは密教の曼荼羅絵の影響でしょう。大日如来は太陽であり、曼荼羅絵では赤く描かれることが多い。 この赤丸太陽は後醍醐天皇の怒りの象徴だと思います。 後醍醐天皇は自ら真っ赤に燃える太陽、火の玉になって怨敵・鎌倉幕府を焼き滅ぼそうと調伏の加持祈祷を行ったのでした。 ここにおいて、赤丸太陽と怨敵調伏が結びつきました。赤丸太陽マークは怨敵調伏、悪人を滅ぼす呪術的シンボルマークとして登場しました。 赤丸太陽デザインは、普段は金丸である太陽が烈火の如く怒った時の姿として、後醍醐天皇が考案したのだと断定して良いでしょう。 後醍醐天皇の怒りの赤丸模様を南朝方武士の白旗に描けば「日の丸」の原型となります。 補足1:大日如来と不動明王 大日如来坐像は黄金色で落ち着いたお姿で彫刻されている場合が多い。これは正義と恵みの如来でもあるからです。ところが大日如来がいったん激しく怒ると不動明王に変身します。 不動明王は剣と捕縄を持ち、怒りの炎の中におります。この炎は赤を基調とした色合いで描かれているのはご存知の通りです。悪を絶対に許さないというお姿です。 補足2:神風 元寇に際して鎌倉武士は奮闘して元軍を撃退しました。ところが朝廷は全国の寺社に敵国調伏の祈祷を行わせた成果だと信じておりました。神風が吹いたというのも朝廷や寺社筋から出たウワサです。 後醍醐天皇も、この姿で加持祈祷を行えば必ず幕府は滅びると確信していたことでしょう。 #
by hangeshow
| 2008-10-08 09:25
| 中世
わたしが子どもだった頃、長谷川一夫主演で『日蓮と蒙古大襲来』(1958年)という大映映画がありました。
蒙古襲来を知った日蓮上人が博多の海辺で夜を徹して祈り続け、その祈りが天に通じたのか、暴風雨が吹き荒れて……という映画で、「歴史スペクタクル」と銘打った映画ですが、歴史的事実とは異なった商業映画です。 日蓮の祈りで蒙古襲来という国難を避け得たという「説」はかなり古くから流布されています。 画像元:http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/307332/ ![]() 時代背景としては、明治27年=日清戦争、明治37年=日露戦争ですから、アジアに対する対外膨張主義の国威発揚運動の一環として建設されたことは明らかです。 『江戸名所図会』(1836年)巻七によると、押上の最教寺に、「鎌倉将軍惟康(これやす)親王、 蒙古鎮制のために書かしむる ところの日蓮上人真蹟の曼荼羅(マンダラ)の旗あり」と書かれています。最教寺は戦災で八王子市に移転しました。 鎌倉将軍惟康親王とは源氏が三代で亡びた後の第七代将軍。 その曼荼羅とは上下に八代龍王を描き、四角(すみ)に四天王を描き、中央の丸い輪の中に「南無妙法蓮華教」そして諸仏の名前が小文字で埋め尽くしたもので、丸印に描かれているから「日の丸」曼荼羅といわれています。 鎌倉将軍惟康親王が博多まで持参し、この旗を立てて蒙古軍を蹴散らした--という図が『江戸名所図会』にも載っています。 http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/03/0604.html参照 最教寺住職に電話で問い合わせたら「曼荼羅の旗はあるけれど江戸時代のものらしい」とのことでした。 『立正安国論』で「日蓮は日本国の棟梁なり。余を失うは、日本国の柱を倒すなり。」と宣言し、 「自界反逆難で、北条一門同士討ちになり、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)で他国の侵略にあう。建長寺・極楽寺等一切の念仏者・禅僧の寺は焼き払い、その首を切らなければ、日本国は亡びるのだ」と予言しました。 予言通り、北条一門の同士討ちは起こり、蒙古が襲来してきました。しかし日本国は滅びませんでした。 日蓮を困惑させたのは、諸悪の根源である他宗派は健在であり、鎌倉幕府が日蓮宗に帰依しないままで蒙古軍が滅びたことでした。 大映映画では、博多の海岸で日蓮が必死に敵国調伏の祈りをささげ大嵐を呼んでいる時期、実際の日蓮は山梨県・身延山におりました。 日蓮の「日の丸」を掲げて惟康親王が進軍した事実もありません。親王はずっと鎌倉にいました。 二度目の元寇の際、日蓮は『小蒙古御書』なるものを書き、「蒙古襲来については軽々しく口にするな」と門人に回覧させています。 二度目の元寇も日蓮の予期に反し、蒙古が壊滅したという弟子からの知らせを受け取った時、日蓮は「そんなはずがない。この日蓮を陥れるためのデマだ」と言いました。『富城入道殿御返事』 中世が専門の歴史学者・網野善彦氏は「日蓮は実は元寇が日本を征服することを望んでいた」(講談社『日本の歴史10』)とまで言い切ります。 日蓮が蒙古調伏の祈祷を行ったということは歴史的事実に反します。 そうあって欲しかったという後の信者が作り出した絵空事です。 絵空事も時間がたち、事情を知らない人が多くなると、偽物の証拠が作られ、真実らしく立ち現れてくることに注意が必要です。 あの巨大な銅像が絵空事であるとは…。信じた人には無惨なことです。国粋主義者は往々にしてこのような勇み足をいたします。 絵空事だと自由に言えるようになるのは戦後もだいぶたってからのことでした。 補足1:軍国主義者 日蓮の信者には著名な軍国主義者が多い。「八紘一宇」(世界を一つの家にするの意)という戦前の対外侵略のスローガンを明治36年に考案した田中智学。翌年には日露戦争が始まる。 バルチィック艦隊を撃破した東郷平八郎。 満州事変・満州国建国の立役者にして「(世界)最終戦争」をたくらむ軍人石原莞爾(かんじ)。 2.26事件の理論的支柱で『日本改造法案大綱』の著者・北一輝。 テロ組織「血盟団」を主催し、井上準之助と団琢磨を暗殺させた井上日召(にっしょう) ![]() 1932年(昭和7年)2月16日、奉天(現・瀋陽)で開かれた「満州建国会議」の記念写真。満州各地の4人のリーダーと本庄繁関東軍司令官、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐など。 わざわざ日蓮の誕生日に開かれた会議の会場には南無妙法蓮華経の曼荼羅が飾られています。 補足2:平和主義者 「宇宙全体が幸福にならない限り個人の幸福はありえない」と言った宮沢賢治も上述の田中智学の薫陶を受けています。 #
by hangeshow
| 2008-10-07 20:42
| 中世
「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」は鎌倉時代の肥後国の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が作成したもので、文永(1274年)・弘安(1281年)の役の様子が絵と詞書に克明に記録されています。
同時代の資料として貴重で国宝に指定されています。 原本は現在、宮内庁所蔵ですが、九州大学附属図書館所蔵の模本がHPで公開されています。 http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html ![]() 季長が奮戦しているこの場面は教科書に掲載されていますから多くの人が見たことがあるでしょう。 もっともこの有名な場面は江戸時代の加筆だと言う説が最近では有力になっています。 さて外国軍の進入に際して幕府軍が統一した旗の下で闘った様子はこの絵詞からはうかがうことはできません。 武士はみな白旗です。血筋が平家であっても源氏(幕府)に加勢した時は白旗という習慣ができており、幕府の執権が北条氏(平家)であってもその習慣が続いていました。つまり、武士の旗は白旗、これが当時の常識です。 所属を示すために家紋が染められた旗や、横二本の黒線が入っていたり、裾が黒く塗り分けられた旗もあります。 次の図2枚は季長が志賀島へ向けて「生の松原」を出発する場面です。 騎馬武者に対して防塁として築いた石垣にの上にいる武者が挨拶をしていますが、その数名が扇子を手にしています。 ![]() ![]() 左が九州大学図書館の模本。右が埼玉県立歴史と民族博物館所蔵の模本です。 同じ場面でも、石垣に腰掛けているの武士が持つ扇が違います。 左図の武将は単なる 「赤扇」ですが 右図では 「赤地に金丸」扇を持っています。 どちらの模本が原本に近いのか、あるいは原本には元々金丸が描かれていたのか、学者の説は色々あるようです。 原本は一度水に浸かってかなり破損したのものを江戸時代に修復したそうですから、金丸の色が抜けてしまったと判断した画家が描いた模本が埼玉の博物館にあるのでしょう。 九州大学付属図書館版でも船上の武士が赤地金丸扇を持っていましたから、原本はみな「赤地金丸」扇だったのではないかとわたしは思います。 平安時代末期の源平合戦以来、この頃まで「赤地金丸」扇が武士の持つ伝統的な扇であったのでしょう。 牛若丸が「白地に赤丸」扇で弁慶を懲らしめたなどという一部の人が主張する説は、まったく根拠のない、時代錯誤の説であることを「蒙古襲来絵詞」が証明しています。 少なくとも誰一人として「白地に赤丸」扇を持っている武将は描かれていません。 一方、元軍(モンゴル・高麗・旧南宋連合軍)は「日の丸」の乱立です。「日の丸」旗が元軍の旗であったことは疑い得ません。 以下3図はすべてモンゴル軍を描いています。 ![]() ![]() ![]() 「日の丸」は数種類あります。赤地に金丸、白地に金丸、赤地白丸、黄地白丸、赤地金丸青縁取りなどで、多くは単なる長方形ではなく、周囲にヒレヒレがたくさん付いています。またペナント型の三角形の旗もあります。矢を防ぐ盾にも丸印が描かれ、舳先にも複数の丸印が描かれています。 元軍の「日の丸」はおそらく日月旗でありましょう。日本的デザインと違いますからなかなか日と月の区別ができません。 日本を含め、中国文化圏では日月は皇帝のシンボルマークですから元軍がこの旗を正面に押し立ててきたのは当然です。中国版の錦の御旗です。 「日の丸」は元軍の旗印--これは鎌倉武士に深い印象を与えたことは想像に難くありません。そして教科書執筆者や「日の丸」研究者にとってこの事実は明々白々なのに誰も国民に語ろうとしないのは不思議なことです。 「日の丸」は天照大神の象徴と考える人々にとって、それが元軍の象徴であったことは語りたくない歴史の事実なのでしょう。 皇帝が現場にいないのに日月旗が戦場にあるという元軍のスタイルを、後に後醍醐天皇が採用します。 後醍醐天皇とその皇子は日月旗(錦の御旗)を乱発して鎌倉幕府と闘い、さらには足利尊氏の室町幕府(北朝側の武士)と戦い続けました。 この件は後に詳しく述べます。 #
by hangeshow
| 2008-09-30 20:16
| 中世
![]() " 錦の御旗(にしきのみはた)とは、朝廷の軍(官軍)の旗印。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に下賜する慣習がある。承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、歴史上の錦旗の初見とされる。 " この図は幕末に官軍が使用したもので、赤の錦地に金色の日像を配し、「天照皇太神」と金文字で記されています。 では錦旗の初見とされる後鳥羽上皇が配下の武将に与えた旗はどのようなものであったでしょうか。 その前に承久の乱について復習してみましょう。 源氏が三代で滅びた時に朝廷は幕府を解体して日本全土を朝廷が支配する絶好の機会と考えました。執権・北条義時追討の命令を出せば全国の武士がはせ参じてくると皮算用をはじいていたのですが、案に相違して幕府軍のすばやい動きによって京都は20万の軍勢で制圧されてしまいました。 戦後処理は大変厳しいもので、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐国に配流。後鳥羽上皇の皇子たちも配流。天皇(御年3歳)は更迭。上級公家六人が死罪、朝廷に加担した武家の多くが死罪と決し、上皇の膨大な荘園や反幕府に属した公家の荘園、武士の領地は没収されました。 上皇や天皇、朝廷がかつては家来筋であった武家によって処分されるなどは前代未聞の出来事でした。 この事件以後、朝廷は幕府に頭が上がらなくなり、次期天皇の人事を含め宮廷の人事はすべて幕府の意見をきいてからとなってしまいます。 この時、朝廷軍と幕府軍との戦闘では「錦の御旗」はあがったのでしょうか。 というのも東海道方面軍司令官であった北条泰時が、出陣翌日に単騎舞い戻り、「もしも思いもかけず天皇が錦の御旗を立てて出てきたらどうしたら良いでしょうか、それを尋ねに一人で戻りました」と義時に聞く場面が『増鏡』にあります。 義時はしばらく考えた後、「その時は兜をぬぎ、弓の弦を切ってひたすらかしこみ、身を天皇に預けよ。天皇がいなければ命を捨てる覚悟で戦え」というと最後まで聞くか聞かないかのうちに泰時は急いで出立したそうです。 『増鏡』にあるこの有名なエピソードは事実を伝えているのか信憑性に疑問を持たれています。天皇の前に出たらひたすらに控えなさいという勤皇の武士(義時)と、天皇を更迭し、上皇らを流罪・死罪に処した義時とが結びつかないからです。 『増鏡』の原文を読んでみると“――もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重(げんぢよう)なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。――”とあります。 鳳輦とは天皇が乗る神輿で、その前に御旗がある、というスタイルが当時の天皇の外出の様子で、この場合の御旗は軍旗というよりも、天皇がここに来ているぞということを周囲に知らせる旗です。 この御旗は「日月旗(じつがつき)」とよばれ、日月は金銀の円形、地の色は双方とも朝廷を意味する赤色。日月二旒でワンセット。そもそも軍旗ではありません。 (文頭の図は赤地に金色太陽紋章の錦の御旗。銀丸の太陰紋章と一対になるべきもの) 北条泰時が父・義時にたずねたのは「万一、天皇出御を示す日月旗が戦場にあったらどうするか」であり、義時が応じるのにやや間があったのは「それはありえない」という結論を出すまでの時間だったのでしょう。 義時の予想通り、後鳥羽上皇は敗戦が確実となると御所に逃げ込み門を閉ざして味方の武将も追い返してしまいます。仮に御旗が出たとしても、鎌倉勢の目には留まる間もなく引っ込んでしまったのでしょう。 『ウィキペディア』を見た人は、承久の乱に際してこの日月旗を軍旗として武将に与えたかのような印章を持つと思います。それは事実に反します。 日月旗はいつも天皇と一緒にあるべきもので、これを武将に与えることはありません。 幕末の場合、薩長がグルになって「日月旗もどき」を勝手に大量に作って薩長が官軍、幕府は賊軍というイメージアップに成功しました。これを普通は「錦の御旗」といいます。文頭の図を良く見てください。「天照皇太神」の文字があります。本来の日月旗にはこのような文字はありません。 では承久の乱で、朝廷軍は「日月旗もどき」を掲げたのでしょうか。 「日月旗もどき」は戦場に掲げられませんでした。 『承久兵乱記』によれば(原文のかなを漢字にしました--筆者) ![]() ※右図が金剛鈴 とありますから、無紋の赤地錦の旗の端にスカーフ状の布を巻き、密教法具の鈴をつけ、不動明王や持国天、増長天、広目天、多聞天(四天王)の文字を描いた旗のようです。 しかし、これでは何の旗だかわかりませんから、坂東武者には何の効果もなかったことでしょう。 ともあれ、天皇(上皇)が武将に与えた軍旗であり、錦の布だったのですから“最初の「錦の御旗」だった”ことは間違いではありません。 しかし、注釈無しに、錦の御旗の初見と言えば、幕末の日月紋章の旗を思い出してしまいます。 最初の錦の御旗は異様な旗だったと『ウィキペディア』は記述すべきです。 補足1:武田家の「日の丸」 甲州・武田家伝来の家宝「日の丸」が前九年の役(1051年)に際して下賜された旗ならば、武田家が最古の「御旗」になるはずですが、布地は錦ではないので「錦の御旗」とは言わずに単に「御旗」です。 しかし、後鳥羽上皇が与えた御旗が「赤地錦に領布と金剛鈴をつけたもの」という、まだ内容も形式も整っていない旗だったのに対して、武田家の「日の丸」はデザイン的に完成されています。 その点でも武田家の伝承には疑問符がつきます。(16)武田家伝来の「日の丸」参照 補足2:天皇に弓引く武士 かつて那須与一が射った扇は赤地に金色太陽紋の扇でした。赤地は朝廷を示し、金丸は天皇を示します。平家は朝廷(天皇)に弓引くのか、と挑発したのです。 しかも扇は神を招く神具という意味を持ったものですから、この扇を射るか、はずすか神の意志が現れると現場の源平の武士は思いました。 与一が射ることができたのは、天皇に弓引くのではなく、この時にはもう京都に新(後鳥羽)天皇がおりましたから、安徳帝は元天皇(それはもうタダの人)にすぎません。 恐れることはない、あとは南無八幡大菩薩というわけです。 承久の乱の上皇配流も同じ手法がとられています。 後鳥羽の兄で出家していた行助(ぎょうじょ)法親王を説得して還俗(げんぞく)させ、いきなり上皇の位に据え「治天の君」としました。これが後高倉院(上皇)で、天皇経験のない上皇は史上初めてです。 次にこの後高倉院の子を幕府は天皇にしました。後堀河天皇です。 こうなれば、三上皇は 「元天皇というただの人」 にすぎませんから、遠慮無く配流が決められたのでした。 補足3:日月旗 原文に「かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先立てて御旗をあげられ」とある「御旗」を日月旗と述べましたが、後鳥羽上皇の時代に御旗が日月旗のデザインとして確立していた--という確証はありません。後醍醐天皇の頃はもう日月旗です。 #
by hangeshow
| 2008-09-26 09:53
| 中世
|
ファン申請 |
||